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桶狭間合戦前夜、若き頃の豊臣秀吉が近江六角氏に援軍を頼んだという話は事実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川義元本陣跡(名古屋市南区)。(写真:イメージマート)

 苦境に陥ったとき、誰でもいいから助けてほしいというのは誰にでもあることだ。桶狭間合戦前夜、若き頃の豊臣秀吉が近江六角氏に援軍を頼んだという話があるが、それが事実なのか考えてみよう。

 以下、『絵本太閤記』に書かれた話である。永禄3年(1560)の桶狭間合戦の前夜、今川義元が織田信長の領国の尾張国に攻め込むという噂が広まっていた。

 柴田勝家ら重臣は、信長に降参を勧めたが、豊臣秀吉は反対した。それは、信長も同じである。織田家では軍議を開き、今川氏と雌雄を決することで一致したものの、織田軍の情勢は不利だった。

 すると、秀吉は近江の六角義秀に援軍を依頼し、ともに今川軍と戦ってはどうかと提案し、信長も賛意を示した。早速、秀吉はお供を連れて、近江六角氏のもとに交渉しに行ったのである。

 当時、義秀はまだ幼く、おじの義賢が後見役を務めていたので、秀吉は義賢と交渉することになった。秀吉は義賢に織田軍へ援軍を出して欲しいと依頼したが、すぐに義賢は首を縦に振らなかった。

 そこで、秀吉は仮に織田軍が今川軍に敗れることがあれば、今川軍はそのまま近江に攻め込んでくると述べた。そうなると、六角氏が滅亡する可能性は、大いにあったといえよう。

 秀吉は、六角軍が援軍として加われば、織田軍は死力を尽くして戦うので、もし負けたとしても、今川軍は近江に攻め込む余力がなくなると説明したのである。そして、義賢に再考を促したのである。

 しかし、義賢は応じなかったので、秀吉は義賢に対して、鎧や旗指物を貸してほしいと懇願した。六角軍の鎧や旗指物を野伏に着用させ、六角軍が援軍に来たと言えば、味方の士気が上がるからである。

 続けて秀吉は、このまま信長のもとに帰ると、合わせる顔がないと述べたので、義賢は貸し出しを認めたのである。とはいえ、この一連の話は史実としては、とても認めがたいものである。

 『絵本太閤記』は単なる文学作品で、歴史史料としては使えない。こうした事実を裏付けるたしかな史料もない。おそらく秀吉は機転が利いたので、これくらいのことをやったかもしれないと、作者が創作したものだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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