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阪神淡路大震災から21年、何が変わったか?

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:ロイター/アフロ)

神戸から21年

今日1月17日で、阪神・淡路大震災から21年を迎えます。地震の名前は兵庫県南部地震、地震規模は気象庁マグニチュードで7.3、三連休の翌朝の朝5時46分に発生した地震です。1948年福井地震の後に設定された震度7が初めて観測された地震です。犠牲者は、死者6,434名、行方不明者3名に上ります。壊滅したまちの映像が忘れられませんが、今、神戸のまちを訪れると、外見上は震災の傷跡はほとんど残っていません。神戸の人たちの復興への努力がうかがえます。さて、この震災は、その後の社会をどのように変えたのでしょうか。 

大都市の直下で起きる地震のこわさ

兵庫県南部地震以降、同規模の内陸直下で起きた地震は10個程度あります。ですが、死者数はいずれも100人以下です。地震は自然現象ですが、被害は人間活動が生み出します。被害量は人口の集中と共に指数関数的に増えます。そして、いつも災害は、地域社会が抱える問題を露呈します。この20年間、大都市では、低平地へのまちの拡大、建築物の密集化・高層化・大型化、ライフラインや高速交通機関への依存などが進み、災害危険度が高まっているように感じられます。

震度7の揺れ、重要な構造物が壊れる

地震直後、途中階が崩壊した神戸市役所旧庁舎や、横倒しになった阪神高速道路の映像に、衝撃を受けました。多くの日本人は、それまで、我が国の構造物の耐震安全性を信じていたと思います。震災後、高速道路や鉄道の橋脚などの耐震補強が推進され、さらに公共建築物の多くも耐震補強されています。ただ、一般の建築物の耐震基準はあくまでも最低基準ですから、震度7の強い揺れは考えていません。ですから、今後も、神戸のような強い揺れに対して、建築物被害をゼロにすることは難しいと思われます。

家屋倒壊が死因の最大原因

震災直後に死亡した人の約9割は、家の中で亡くなりました。住家被害は、全半壊合わせて約25万棟にも上りました。とくに、古い木造家屋の被害が顕著でした。現行の耐震基準を満たさない建築物を既存不適格建物と言いますが、この被害が甚大だったため、震災後、耐震改修促進法が制定され、既存不適格家屋の耐震診断や耐震補強が進められました。とはいえ、未だ、全国に耐震性が不足する家屋は1000万棟程度あるようです。さらなる耐震化が必要だと感じます。

震災の帯

兵庫県南部地震では、神戸を中心に「震災の帯」と呼ぶ震度7の帯状の地域ができました。しかし、地震観測が不十分だったため、被害原因の分析に苦労しました。その後、「震災の帯」は、神戸直下の活断層と、地下構造に原因があると考えられました。また、地震発生の危険性が事前に指摘されなかったため、地震予知の限界も指摘されました。このため、予知から防災へと関心が移り、地震防災対策特別措置法が制定され、地震調査推進本部が発足しました。そして、活断層調査、堆積平野地下構造調査、強震観測網整備などが推進され、この成果が、地震動予測地図として結実しました。

都市を支えるライフライン

ライフラインが長期間途絶し、ピーク時には、水道の断水が約130万戸、ガスの供給停止が約86万戸、停電が約260万戸にも上りました。発電所の被害が小さかったので電気は早期に復旧しましたが、水道とガスの復旧には数カ月を要しました。家屋倒壊による道路閉塞に加え、高架の道路や鉄道の被害も甚大だったため、交通機関も長期間に亘ってマヒしました。東西を結ぶ交通の途絶したため、全国各地の工場が製造停止しました。その後、ライフラインの防災対策や、企業の事業継続計画(BCP)が進められてきています。

ボランティアと自衛隊

震災後、日本中から多くの若者がボランティアとして被災地に支援に入り、我が国のボランティア元年とも言える災害でした。震災で育ったボランティアは、その後の災害でも大活躍をしています。また、自衛隊が災害救援に大きく貢献したため、災害時の自衛隊の役割の大きさを国民が実感した災害でもありました。しかし、伊勢湾台風以降長らく経験していなかった大災害であり、直後に発生した地下鉄サリン事件と共に、我が国の危機管理のあり方を考えるきっかけにもなりました。

情報の不足と危機管理

被害が余りに甚大で、当時の社会が持っていた災害対応能力では対処が難しい災害だったため、被害状況を把握するのに時間がかかりました。毎日増える犠牲者の数や、水が出ず燃え広がる火災を消すことができない事態に、多くの国民が苛立ちを感じました。被害情報の不足は、政府や自治体の対応を遅滞させ、平和ボケした我が国の危機管理能力の低さが明らかになりました。その後、我が国の危機管理体制が抜本的に見直されることになりました。

情報入手方法の多様化

震災のとき、大変役に立ったのは、当時、普及し始めていた携帯電話、電子メール、インターネット(WWW)です。電話やファックスと比べ、格段に情報交換や情報入手が容易になり、その後、様々な災害情報システムが開発されるきっかけになりました。

大災害後に繰り返される同じ反省

また、マスメディアの過度な報道競争や、研究者の細分化されすぎた研究など、多方面で自己反省し、マスメディアの災害時連携や、研究者と社会との連携の必要性などが指摘されました。「想定外」という言葉も含め、21年前に議論されたことが、5年前にも再び指摘されたことは、私たち人間の弱さを物語っているように感じます。

このように、阪神・淡路大震災がその後の我が国社会に与えた影響は絶大でした。あのときに感じたことを忘れずに、災害を未然に防ぐため、阪神・淡路大震災の教訓に大いに学び、災害に負けない社会を作ることで、次世代にこの豊かな社会を受け継いでいきたいと思います。南海トラフ地震や首都直下地震の切迫性が叫ばれる中、国土強靭化や地方創生の施策の実効性が問われています。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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