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若き頃の前田利家が織田家から追放された当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
前田利家像。(写真:イメージマート)

 会社などで不祥事を起こした社員は、懲戒免職になる。最近では、横領の類が多いようだ。若き頃の前田利家は織田信長に仕えていたが、不祥事を起こして追放された。その顛末を考えてみよう。

 永禄2年(1559)6月、前田利家は妻「まつ」との間に子を授かった。利家は幸せいっぱいだったが、思いがけず織田家を追放されるということになった。以下、事件の顛末を記すことにしよう。

 同年6月、清洲城(愛知県清須市)で利家が佩刀の笄を見ていると、信長に仕える同朋衆の拾阿弥がこれを盗んだ。利家がこれを討とうとしたところ、重臣の佐々成政が拾阿弥をかばったのである。利家は信長に対して、拾阿弥を討つことの許可を求めたが、それは却下された。

 利家は納得しなかったかもしれないが、主君の命令は絶対だったのだ。これに味をしめた拾阿弥の素行は、以後も改まることがなかった。拾阿弥にすれば、信長のお墨付きを得て許されたこともあり、成政という後ろ盾もいたので、怖いもの知らずだったのかもしれない。

 しかし、怒りが頂点に達した利家は、信長の面前で拾阿弥を斬った。これは命令違反でもあり、信長のメンツは丸潰れだった。怒り心頭に発した信長は、利家に自害を命じたのである。信長の強い態度にもかかわらず、柴田勝家らの重臣が思い止まるよう説得したので、利家を家中から追放することにした。

 これは信長にとっても、難しい判断だった。利家に自害を命じるのは簡単だが、家臣からの助命嘆願を無視するわけにはいかなかった。信長だけではなく、戦国大名は家臣の意向を決して無視できなかった。そこで、信長は自害の命令を撤回し、利家を家中から追放したことになろう。

 織田家中を追放された利家は、熱田(名古屋市熱田区)の社家の松岡氏、駿河の林氏らの庇護を受け、再び織田家に出仕する機会をうかがっていた。利家の牢人生活は経済的に厳しく、織田家に仕官するよりほかには道がなかったのである。

 翌永禄3年(1560)、信長は桶狭間の戦いで今川義元に勝利した。その際、利家は私的に出陣して、敵の首を取ったが、信長は帰参を許さなかった。翌年の美濃における斎藤氏との戦いにおいて、またも利家は私的に出陣し、大いに軍功を挙げた。これにより、信長は利家の出仕を許したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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