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安国寺恵瓊は織田信長の失脚を予言し、豊臣秀吉の才覚を高く評価した

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(写真:イメージマート)

 豊臣秀吉は関白となり、天下人として君臨した。毛利氏に仕えた安国寺恵瓊は織田信長の失脚を予言し、若き頃の秀吉を高く評価していたので、その辺りを取り上げることにしよう。

 安国寺恵瓊は安芸武田氏の子孫といわれ、安国寺で出家し僧侶となった。のちに毛利元就に仕えて、外交僧として活躍した。外交僧とは、諸大名との交渉役ということになろう。元就の死後は、孫の輝元に仕えた。

 天正元年(1573)、織田信長は足利義昭と袂を分かち、以降は「反信長勢力」との戦いに明け暮れた。一方で、当時の毛利氏は信長と良好な関係を保っており、その交渉役を務めたのが恵瓊だった。

 同年12月12日付の恵瓊の書状(児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛。「吉川家文書」)には、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」と書かれている。

 内容を示すと、「信長の代は5年、3年は続き、来年には公家にもなるだろうと思う。その後、信長は大変な目に遭うだろう」ということになろう。明確に理由は記されていないが、恵瓊は信長が将来失脚するであろうことを述べているのだ。

 その続きで、恵瓊は「藤吉郎(秀吉)さりとてはの者にて候」と書いているので、秀吉をなかなかの人物だと評価していた。信長が天正10年(1582)の本能寺の変で横死すると、秀吉は見事に天下人となり、諸大名を従わせたのである。

 『太閤記』には恵瓊の書状を知ってか知らでか、恵瓊が若い頃の秀吉に「あなたには、将来天下を取る相がある」と予言したと書かれている。後年、秀吉は恵瓊の予言したとおり天下人になると、恵瓊に所領を与えたというのである。

 もちろん、恵瓊にどれだけの予言の能力があったのかは知る由もないが、直接、秀吉に面会したり、情報を得たりした中で、そのような予想をするに至ったのだろう。ただ、いかに恵瓊とはいえ、関ヶ原合戦で西軍の敗北を予想できなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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