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慶應義塾高が夏の甲子園を制す!! 107年前の優勝は頭脳的かつ物凄い力技だった

横尾弘一野球ジャーナリスト
慶應義塾高の快進撃に、高校野球の聖地・甲子園球場も湧いた。(写真:岡沢克郎/アフロ)

 強豪ひしめく神奈川県大会で東海大相模高や横浜高を連破し、春に続いて夏も甲子園の大舞台に立った慶應義塾高が快進撃を見せた。大正9(1920)年以来103年ぶりに決勝へ進出し、史上7校目の大会連覇を狙う仙台育英高と激突した。

 好調のリードオフ・丸田湊斗の先頭打者弾で慶應義塾高が先手を取った試合は、3回を終えて3対2で慶応義塾高のリードと白熱。だが、5回表二死一塁から福井直睦のレフト線への二塁打で1点を加えた慶應義塾高は、さらに2安打1四球に敵失も絡んで4点を追加し、8対2として試合の主導権を握る。

 そして、その裏から登板した小宅雅己は、テンポのいい投球で仙台育英高に反撃を許さず、6点のリードを守って歓喜の瞬間を迎えた。

 大正4(1915)年に産声を上げた第1回全国中等学校野球選手権大会で、ライバルの早稲田実業に敗れて舞台に立てなかった慶應普通部は、翌1916年は何が何でも代表権を手にしようと必死の練習に励む。22歳で監督を務めた腰本 寿は、ハワイ生まれの日系二世で、慶大では二塁手として活躍した。その腰本監督が主将でエースに抜擢した山口 昇は、実は慶應普通部ではなく慶應商工の生徒だった。しかも、高い潜在能力を認められて慶大でも試合に出場していたという。現在のように選手登録などが整備されていなかった時代とはいえ、「同じ慶應だから」と、厳密に言えば他校の試合にも出てしまう力技で早稲田実業を倒した慶應普通部は、第2回大会に初出場する。

 山口と並ぶ実力を備えた河野元彦、新田恭一と三本柱を擁した慶應普通部は、エースの先発完投が当たり前の中でも、腰本監督が継投で相手打線の目先を変える戦術を採用。愛知四中(現・時習館高)との一回戦は新田から山口につなぎ、終盤の猛攻で6対2と逆転勝ちを収める。香川商(現・高松商高)との準々決勝は小刻みな加点で4回までに6対0とリードし、新田から河野へのリレーで9対3と快勝する。

 和歌山中(現・桐蔭高)との準決勝は3対3の9回表に4点を奪って制したが、一回戦と同じ新田から山口への継投。そして、市岡中(現・市岡高)との決勝では、満を持して山口が先発し、打線も3回裏に一挙5点を援護する。山口は2失点で完投し、慶應普通部は6対2で初出場優勝。圧倒的な戦いぶりだったと報じられている。ちなみに、この大会は甲子園球場ではなく豊中グラウンドだったから、甲子園を舞台に慶應が頂点に立つのは今年が初めてとなる。

自分たちの野球を自分たちで作り上げる強さ

 そうして、慶應普通部は1921年の第7回大会まで6年連続で夏の甲子園に出場。慶應商工は別のチームを編成し、夏の甲子園に4回出場。その後、学制改革によって両校は慶應義塾第一高、第二高を経て、1949年に慶應義塾高となり、現在の日吉校地に移転している。

 神奈川県代表としては、1962年夏を最後に甲子園からは遠ざかるも、2005年春に45年ぶりの出場を果たしてベスト8へ進出し、夏も2008年に46年ぶりの出場でベスト8まで駒を進めた。

 女子にも硬式野球が急速に普及していく一方で、高校球児の減少は日本の野球界全体の問題とされ、その原因として旧態依然とした指導者のあり方や上下関係などが指摘されている。そんな時代にあって、しかもコロナ禍で始まった高校生活にもかかわらず、慶應義塾高の選手たちには、自分たちの野球を自分たちで作り上げ、対戦相手をリスペクトしながら全力で戦い抜こうという強い意志が感じられた。

 それさえ胸の内にあれば、髪型や白い歯を見せることなど個性のひとつに過ぎない。そんな自身が主体となる野球を見せてくれた慶應義塾高の快進撃は、これからの高校野球の姿にもいい影響をもたらしてくれるだろう。また、惜しくも大会連覇はならなかったが、王者として浦和学院高、聖光学院高、履正社高、花巻東高、神村学園高と次々と強豪校を倒した仙台育英高が対戦相手だったからこそ、慶應義塾高は十二分に力を発揮し、高校野球の楽しさも示してくれたのではないか。

 野球とは、やはり対戦相手に恵まれてこそ、大きく成長できる競技なのである。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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