ルポ「ガザは今・2019年夏」・9「密航船沈没の遺族たち(下)」
'''――密航沈没の遺族たち(下)――
【長男の重責】
定員の2倍近い乗客430人を乗せて、エジプトからイタリアに向けて出航した廃船同様のアレキサンドリア号が、4日後、地中海で沈没した。生存者は11人、他は行方がわからず、遺体もみつかっていない。
ガザ南部の都市ハンユニス市郊外で暮らすスビア・アルアバドゥラ(50)の長男モハマド・アルアバドゥラ(27)と妻(25)、それに3人の幼子たちも行方不明のままだ。
父親が2年前に亡くなったあと、モハマドはアルアバドゥラ家の家長として、自身の家族や弟、妹たちを養う重責を負っていた。
モハマドは2007年の内戦以前までガザ地区の政府だったパレスチナ自治政府(PA)の職員だった。しかし2007年の内戦によってPAがガザ地区を追われると、モハマドは1年半も給与のない状況が続いた。
その後、支払われることになった給与は、月に1300シェケル(約4万円)。物価の安いガザでも、大家族を養うのには足りなかった。二人の弟たちは大学進学を願い、その費用もモハマドが工面しなければならず、アルアバドゥラ家は苦境に陥った。
モハマドが行きついた結論は、ヨーロッパへの移住だった。
「昼食を食べている時に突然、モハマドがその計画について私に話を切り出しました。私は手からスプーンを落としてしまいました。食事を終えることができませんでした」
母親のスビアは、モハマドに計画を打ち明けられた時の衝撃をそう語った。
「私はその計画に反対でした。モハマドに行ってほしくなかったんです。『私が頼れるのはお前だけだから、私や弟たちを残していかないで』と、移住を止めるために何度も説得しました。
でも息子は、『ガザを出る!』と言い張りました。『弟たちが勉強を続けて結婚するまで支援するためです。ほんの2年ほど出て、戻ってきます』とモハマドは私に言ったんです」
モハマドは渡航費を妻の父親から借金をした。妻はエジプト国籍を持っていたので、家族は合法的に国境を越えた。
【船沈没のニュース】
「地中海でパレスチナ人が乗った船が沈没した」というニュースがガザで広がったのは2014年9月10日の沈没直後だった。そのニュースを聞き知った三男オータムがそれを母スビアに伝えた。
「もちろん息子が船に乗るまで、エジプトにいるモハマドと連絡を取り合っていました。ただそれまでの4日間、連絡が途絶えていました。そして、船が沈没したというニュースを聞いたんです」
「その時はモハマドがその船に乗っていたのかわかりませんでした。だから当局に電話をしました。そして息子が乗っていた船だとわかったんです。
イタリアのパレスチナ大使館に連絡を取ると、海岸には遺体も生存者もいないということでした。もし溺れたのなら、遺体がどこかの海岸に流れ着いているはずです。しかし不可解なことに、乗客は消えてしまい、遺体がみつからないのです」
アレキサンドリア号の生存者の一人がガザに戻ってきたとき、三男のオータムが会いに行き、事情を聴いた。
その生存者は「海上で斡旋業者が『他の小さな船に乗り換えるように』と乗客に命じたが、拒否すると、一時間後に高速艇がその船に衝突し、船が沈没した」と話した。そして「モハマドたちは海の上でいっしょに祈っていたから、死んでいるはずがない」と言っていたが、しばらく経ってから、「息子さんたちは死んだ」と告げたという。
しかしスビアは、二転三転するその生存者の話を信じていない。
「400人近く乗っていて、11人しか生存者がいないということがあるでしょうか。希望は持っています。モハマドは生きている気がするんです。息子の帰りを待ちます」
兄が密航を試み行方不明になっても、弟オータムは兄と同様にガザを脱出しヨーロッパに移住する夢を抱いている。
「ごらんのように、ガザには“生活”はありません。ガザを出た人には仕事があり、新たな人生があるという希望を与えてくれました。移住先で、仕事を見つけるために教育を続け、生活を築くんです。ここガザでは、たとえ職についたとしても、その給料では日常の必需なものにも事欠き、生活を築くなんてことはできません」
【出発直前の告白】
パレスチナ自治政府の退役軍人であるモハマド・ハジラス(66)の元へ、その日、娘ローアがやってきたのは午後11時過ぎだった。「嫁ぎ先の夫と何か問題でも起きたのか」とモハマドは心配した。
「独りで来たのか?モハマド(夫)は?」と聞くと、「車で送ってくれた」とローアは答えた。
そして突然、「別れを言いにきました。ガザでは生活していけないから、明日、ヨーロッパのベルギーへ行きます」と言った。
驚き、言葉を失ったモハマドに、ローアは話を続けた。
「私も夫も仕事がなく、夫は失業手当をもらうだけで、他に収入もないんです。私たちが大学で勉強したのは仕事を得るためであり、家に留まるためではありません。自分たちは人間らしい生活をしたいんです」
ローアは小さい時から聡明な子で、勉強や読書が大好きだった。高校卒業試験(タウジーヒ)では97.7%というトップクラスの成績でパス。ローアは医学部を目指そうとしたが、父モハマドの勧めで、ガザのエリート校、イスラム大学の土木工学部に入学した。
大学でも4番の成績で、コンクリートにガラス繊維を混入して“光る壁”を発案した。そのプロジェクトをトルコが採用し、ローアは大きな賞を受賞した。
夫モハマドは大学の先輩で、建築設計科を卒業し、建築士になった。しかし大学を卒業しても、ローアにも夫にも仕事はなかった。幸い夫には失業手当が支給されたが、それでは生活できず、時々、モハマドがタクシーの運転手として働いて糊口をしのいだ。
「普通の生活以上の生活は望まない」というのは、ローアがよく父に話した彼女の信条だった。
しかしガザでは、その「普通の生活」さえできない。ローアはお腹に男の子を宿していた。その子の将来のためにも、ローアと夫は3歳になる娘を連れてベルギーへ移住する決断をしたのである。
父モハマドも、ローアの心情は理解できた。
「ガザの状況が改善される見通しはありません。2014年の戦争後のガザの状況はとてもひどく、全てが破壊されました。大卒者たちの失業問題が改善される希望はありません。ハマスもPAも、戦争で住居を失った住民の家々をどう再建するか精一杯で、大卒者の失業問題に注意を払う余裕はないでしょう」
「ガザには希望がないことがわかっているから、ガザを出るという娘の判断には賛成しました。どうして娘たちの人生を邪魔することができたでしょうか。彼女を止める余地などなかったんです。しかも娘はすでに決心をし、出発直前にやってきたんです」
「最後に私は『神がお前と家族を守ってくださるように!』と娘に言いました。彼らはお互い愛し合っているいい夫婦でした。だから二人の関係を邪魔したくなかったのです。ただ娘たちの幸せを願いました」
【周到な準備】
ローアはすでにパスポートも準備していた。家族の一員がエジプトで治療を受ける必要があるという診断書を医者に書いてもらい、合法的にガザからエジプトへ出た。
エジプトから船でヨーロッパへの渡航を手配してくれる斡旋業者に1人2000ドル、2人で4000ドルをすでに支払っていた。ローアの話では、客船にはそれぞれにベッドが用意されているとのことだった。
「娘は私に、それは客船による普通の旅だと言いました。部屋にはそれぞれのベッドがあると聞いて、ほっとしました」
「その渡航計画がそんな危険だということを私は全く知りませんでした。私が娘から得ていた情報は、その渡航は合法的なもので、エジプトでヨーロッパの国のビザを得るというものでした。その移住が密航だとは知らなかったのです」
「その後、リビアやチュニジア、モロッコ、エジプトさらにシリアやトルコで、そのような船の沈没事故が起こっていることを知りました。そんな渡航がどれほど危険で命を脅かすものだと初めて知ったんです。もしそんなに危険な旅だとわかっていたら、私は娘を行かせなかったでしょう」
【信じられない「沈没」のニュース】
ローアとその家族を乗せた船が沈没したというニュースを知って、モハマドはローア一家の行方を必死に探した。パレスチナ自治政府、ガザ政府、さらに在イスラエルのイタリア大使館、国連関係機関などあらゆる機関に問い合わせてみたが、「行方不明者の痕跡はまったくわからない」という返事ばかりだった。
エジプト内に収監されていたガザ出身の元囚人から「乗客はエジプトの刑務所にいる」という話も聞いたが、確かな根拠は何もなかった。
モハマドは、生存者の言う「高速艇に衝突され、船が沈没した」という話は信用していない。
「2階建ての大きな鉄製の船が、高速艇の衝突でどうやって沈没するでしょうか。もし船が沈没したなら、遺体は荷物が海上に散らばっているはずです」
ではアレキサンドリア号に何が起きたのか。
「この事件には多くのミステリー(謎)があると思います。その謎が私たちを混乱させています」とモハマドは答えた。
「『ガザからの移住を止める』という政治的な狙いが背景にあると思うんです。船が沈没したという話がなければ、ガザ地区住民の半分がこのひどい状態のために移住してしまうからです。住民は荒廃させられ、ガザから逃亡する方法が必要だったからです。この密航船の沈没の後、移住する人の数は激減しました」
モハマドは、ベイルートの大学で学ぶために1970年代からガザの故郷を離れ、以来、PLOのメンバーや教員としてシリアやヨルダン、サウジアラビアなどアラブ諸国を転々とてきた。やっと故郷ガザに戻ったのは、オスロ合意によって「パレスチナ警察」の一員として帰国した1994年だった。
何十年も異国暮らしをした後に故郷にもどったモハマドが、ガザ脱出に必死なっている若者たちに、こう助言したいと言った。
「ガザから海外に出ても、現地で仕事もつけず、知り合いもなく孤立して、避難所のコンテナハウスの中で過ごすより、自分の国で家族や友人たちに囲まれて、他人から敬われながら暮らすほうがずっといい。たとえイスラエルによる戦争や封鎖があっても、長く海外暮らしをしてきた私は、自分の国以上にいい場所をみつけることができませんでした」