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追悼・渡辺勝――その優しく、生々しく、抉るかのような歌声に

宗像明将音楽評論家
松倉如子のXのスクリーンショットの一部を筆者が加工

2024年6月30日、渡辺勝の訃報が、長年活動をともにしてきた松倉如子のX(旧Twitter)から伝えられた。

渡辺勝は、はっぴいえんどと並ぶ日本語ロック創成期のバンド・はちみつぱいのメンバーとして知られる。1971年8月には「第3回全日本フォーク・ジャンボリー」あるいは「中津川フォーク・ジャンボリー」(当時の雑誌でも表記が異なる)に鈴木慶一、渡辺勝、本多信介の3人による「蜂蜜ぱい」が出演。渡辺勝は1972年夏に脱退するが、1973年にリリースされたはちみつぱいのアルバムには、元メンバーながら参加している。名盤との誉れ高い『センチメンタル通り』だ。

『センチメンタル通り』で、渡辺勝は「僕の倖せ」「夜は静か通り静か」を提供している。松倉如子の投稿の「倖せ」とは、「僕の倖せ」の表記を踏襲したものだろう。

渡辺勝ははちみつぱい脱退後、アーリータイムスストリングスバンドを結成し、ソロ、松倉如子とのおまつとまさる氏でも活躍した。

はちみつぱいで渡辺勝とともに活動した鈴木慶一は、拙著『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』で、1970年に渡辺勝と出会った日のことをこう回想している。鈴木慶一にとっては、渡辺勝は先に活躍していた「ライバル」だった。

その次は斉藤哲夫さん、渡辺勝と知り合っているけど、勝に対してはちょっと悔しかったのね。なぜかというと、田原総一朗さんが作っていた『青春』という岡林(信康)さんのドキュメンタリーがあって、その後ろで、勝がピアノを弾いていた。哲夫さんの1枚目『悩み多き者よ』のピアノも勝が弾いている。すでに先にデビューしているわけだ。だから悔しいなと思いつつも、家に遊びに行ったりして。あいつが最初に言った言葉で覚えているのが、私が『何の楽器できるの?』と聞いたら、『1週間あれば何でもできるよ』って。みんなツッパってるんだよ(笑)。

はちみつぱいは、1988年、2015年~2017年に再結成し、渡辺勝も参加していた。

私が渡辺勝のライヴを最後に見たのは、2024年4月12日。ほんの3か月足らず前のことだ。センチメンタル・シティ・ロマンスの「半世紀ロック コンサート Vol.2」に「半世紀の友人たち」のひとりとしてゲスト出演していた。この日の「半世紀の友人たち」とは、はちみつぱいの鈴木慶一、武川雅寛、渡辺勝、和田博巳、本多信介、駒沢裕城からなる「The Pie」。元気な姿を見ていただけに、訃報には驚かされた。

2024年4月12日の「The Pie」。渡辺勝は向かって左から3人目。(筆者撮影)
2024年4月12日の「The Pie」。渡辺勝は向かって左から3人目。(筆者撮影)

私にとって、渡辺勝のソロ・アルバムといえば2003年にオフノートからリリースされた傑作『アンダーグラウンド・リサイクル』だ。日本語ロックの黎明期である1970年前後のフォークやロックのカヴァー集だが、同時代を生きた渡辺勝にしか生み出せない生々しさに満ちている。特にあがた森魚の「ハッティ・キャロルの淋しい死」のカヴァーは、まさに「蘇生」されたというにふさわしい強烈な名演である。

渡辺勝はオフノートに数多くの名演を残した。渡辺勝、川下直広、船戸博史、城間和広、國仲勝男によるエミグラントが2002年にリリースした『未生音 pre live』では、「東京」「ラストヴァージン」が鮮烈だ。2003年にフォークパルチザンがリリースした『瓶のなかの球体』では、渡辺勝が「パルチザン」を歌っているが、死が迫るパルチザンの姿を渡辺勝のヴォーカルがありありと描きだす。

個人的には、2010年の白龍館だっただろうか、私が誕生日を迎えた時期に渡辺勝のライヴを訪れたところ、不意に「プレゼント」と言ってCDをくれたことが忘れられない。これからも渡辺勝の遺してくれた音楽を聴き続けたい。

渡辺さん、今までありがとうございました。

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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