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豊臣秀吉が家臣団統制に成功した、意外な秘策とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉公銅像。(写真:イメージマート)

 成果主義が浸透した現在、人事の公平性を担保すべく苦労している会社は多いだろう。豊臣秀吉は天下人になると、朝廷が授ける官職を用いて家臣団統制に成功した。その概要を紹介することにしよう。

 天正13年(1585)、豊臣秀吉は関白に就任した。その後、秀吉は天皇から「豊臣」姓を授けられた。こうして秀吉は、諸大名を従えるべく、各地に兵を送り込んだのである(九州征伐など)。

 同年10月、秀吉は参内を一つの契機として、一門や有力な外様大名の公家成を行った。公家成とは、従五位下・侍従以上に叙位・任官を行うことである。これは、朝廷の官職制度を利用したものだった。

 秀吉が一門や有力な外様大名の公家成を行ったことは、「羽林体制」と称された。「羽林」とは、近衛の唐名である。この秀吉独自の官位体制では、配下の直臣の諸大夫成が行われ、同時に豊臣姓が授与された。

 また、特に有力な大名に限っては、羽柴名字が授けられた。秀吉は、徳川家康のような有力大名を含め、その家臣に至るまでを掌握することに成功したのである。

 豊臣姓を授与したことは、家康と諸大名の関係を一族に擬制化することを意味した。秀吉は、天皇の権威をバックにして、独自の官位体制を国制レベルまで引き上げたといえよう。

 秀吉は天皇の権威と独自の官位体制によって、家臣団統制を行い成功した。「羽林体制」は、秀吉の関白就任時において、一気に成立したといわれている(その後も継続された)。

 諸大名の公家成と羽柴名字の授与は、一体化していた。これにより諸大名は羽柴御一家とみなされ、一門化が行われた。しかも、公家成した大名は、豊臣公儀の構成者になり、豊臣政権の一門と認識されたのである。

 慶長16年(1611)、江戸幕府は朝廷に対して、武家官位を公家の員数から除外するよう奏請し、これは認められるところとなった。これにより武家と公家の官位は、分離したのである。

 秀吉は征夷大将軍には就任することなく、公家のトップである関白を選んだ。それには目的があり、自らを頂点とした独自の官位体制を構築することで、家臣団編制を行ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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