傑物(けつぶつ)たちの思惑と狙われた四国地方!天下統一を目指した猛者たちの狙いとは
約140年間も国内紛争が続いた戦国時代。織田信長が国内初の鉄砲隊を率いて無敵といわれた武田軍に勝利した「長篠の戦い」、そして戦国時代の終結へと続く最後の大戦「関ヶ原の戦い」など印象的な戦いが数多く存在します。
このように無数の合戦が巻き起こっていたことで、歴史的に重要であるにもかかわらず知名度が低い戦いも少なくありません。
そこで今回、天下統一に不可欠な四国の支配権を巡って勃発した「中富川の戦い」について紹介します。さっそく、見ていきましょう。
■交差する支配者たちの思惑と狙われた四国地方
1582年5月頃、天下統一を目前に駒を進める「織田信長」は中国地方の制圧に動き出します。
これに対して、中国地方の支配者・毛利氏は抵抗しますが、相手は武田信玄や上杉謙信を退けて日本の東側を支配した織田信長。毛利氏は負け戦になる可能性も覚悟していたことでしょう。
ただ、日本最強と名高い毛利水軍の防御層は厚く、中国地方の制圧も簡単ではありませんでした。
そこで織田信長が目をつけたのが中国地方に近く、毛利水軍にも劣らない村上水軍をはじめとした海賊たちの拠点「四国地方」だったのです。
四国地方の制圧を目前にしていた「長宗我部元親」は驚愕と怒りに狂ったことでしょう。
何せ、やっとの思いで四国統一の目前にまで漕ぎ着けたというのに、日本上で最も危険な男こと織田信長に狙われることになったのですから。
しかし、1582年6月に「本能寺の変」で織田信長が急死し、運は長宗我部元親や毛利氏に味方することになります。
織田信長の死を好機と捉えた長宗我部元親は、四国地方の残党を処理して四国の平定を急いだのです。これは、来る四国侵攻に備えて準備を整えたかったのでしょう。
激動の世で各地方の支配者たちの思惑が交差する戦国時代後期。まさに、日本統一の鍵となる四国を巡って戦争が始まろうとしていました。この戦いこそが「中富川の戦い」です。
■決戦!四国を手にする勝者は誰だ
四国平定を急ぐ長宗我部元親は、残る阿波国(現・徳島県)へ侵攻を開始。これに対して、阿波国の守護・三好氏は「勝瑞城」を本陣に構え徹底抗戦を宣言します。
両者が激突したのは現在の徳島県藍住町。この戦いで最も注目すべき点は両者の兵力差にありました。
長宗我部元親の軍勢2万3千人に対して、三好氏の軍勢は僅か5千人だったのです。
序盤は地の利を活かした戦いで戦況を有利に保っていた三好軍でしたが、4倍以上もの兵力差に押し返され次第に撤退を余儀なくされてしまいます。
当時、三好氏の代表として戦の指揮をとっていた「十河存保(そごう まさやす)」は勝瑞城に籠城することを決断しますが、2週間という短期間で降伏に追い込まれてしまいました。
こうして、長宗我部元親が四国を手にしたのです。
■最後に勝つのは結局…
先の戦いで生き延びていた十河存保は、豊臣秀吉のもとに泣きつき援助を嘆願。織田信長の意思を継いだ豊臣秀吉は四国制圧を決断し、ものの数日で四国を支配してしまいました。
四国侵攻に対して準備を整えていた長宗我部元親でしたが、織田信長の意思を継いだ傑物・豊臣秀吉の戦力差には到底敵わなかったのです。
中富川の戦いで登場した「勝瑞城」は現存していませんが、残っている城跡は現在も観光することができます。
近年の発掘調査では、三好氏の居館跡とみられる広大な「勝瑞館跡」が発掘され、これから注目を集めるかもしれません。ぜひ、一度訪れてみてはいかがでしょうか。