女も酒も宿も負担…1000億円投資して朝鮮通信使を歓迎した徳川家康の目論見
朝鮮通信使とは、朝鮮王朝の外交官僚をはじめ、学者・医者・芸術家・文人を含む約500名からなる外交使節団です。
彼らは1607年〜1811年までの期間に、計12回も来日。朝鮮使節団の渡航費用・宿泊代金・酒代・食事代・夜伽相手の女性も全て江戸幕府が用意しました。
なぜ江戸幕府は、そこまでして「朝鮮通信使」を日本に招待したのでしょうか。
日本と朝鮮半島の関係について、歴史を振り返りながらみていきましょう。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・日本と朝鮮半島の関係
領土の周辺を海に囲まれる日本にとって、もっとも近国である朝鮮半島は古くから交流のある数少ない国のひとつです。
古墳時代〜平安時代まで、日本と朝鮮半島は非常に親密な関係であったとされています。
しかし、朝鮮半島を統一した新羅国家の滅亡後は一切の交流が断絶(8世紀頃)。
日本と朝鮮半島の交流が復活したのは、室町時代に突入した15世紀のことでした。
室町幕府は朝鮮半島との正式交易を結び、両国は戦国時代末期まで良好関係を築いています。
ところが、この日本と朝鮮半島の友好関係は「豊臣秀吉」により、ぶち壊されてしまうのです。
・豊臣秀吉が壊した関係
戦国時代後期、日本統一を果たした豊臣秀吉は海外進出を目論んでいました。
そして、アジア地域で広大な領土を持つ明国(当時の中国)に目をつけたのです。
朝鮮半島は明国の隣に位置したため、豊臣秀吉は朝鮮側に道案内を要求しました。
しかし、朝鮮半島はこの要求を無視。
腹を立てた豊臣秀吉は、明国攻略の足掛かりとして朝鮮半島への侵攻を開始(1592年)したのです。
こうしてはじまった豊臣秀吉の朝鮮出兵により、日本と朝鮮半島の関係は最悪なものとなってしまったのでした。
・徳川家康の狙い
豊臣秀吉の没後に戦国時代が終結し、1603年に徳川家康が江戸幕府を開いたことで始まった江戸時代。
江戸幕府初代将軍の徳川家康は100万両(現在の1000億円相当)もの費用をかけて朝鮮通信使を歓迎するなど、豊臣秀吉がぶち壊した日本と朝鮮半島の国交関係修復に全力を注いでいます。
そこには徳川家康の大きな目論見がありました。
江戸幕府が明国や朝鮮半島との関係回復に成功すれば、外交権をはじめとした国家権力を豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼ではなく幕府のものにできると考えたからです。
また、他国から「幕府の中央政権化」の支持・賛成をもらえるという目論見もあったのかもしれません。
簡単に説明すると、豊臣残党が握る権力の全てを幕府や自身のものにする狙いがあったのです。
被害を受けた過去を持つ朝鮮側では大きな反発があり、先に日本が国書(外交契約をする際の必須アイテム)を提出するように要求。
国書を先に提出することには「恭順(相手に従う)」の意があり、不利な外交契約を結ばされる可能性があるため日本にとって容認できるものではありませんでした。
外交を務めた対馬藩士は困り果てた末に、日本国王と徳川家康の名前を記載した偽造国書を独断で発行したのです。
偽造国書を朝鮮に届けた対馬藩士は朝鮮王朝より返信の国書をもらいますが、返信の国書には都合の悪い内容が記載されていたため、また偽物にすりかえたといわれています。
このような衝撃的なエピソードがありつつも、日本と朝鮮半島の外交関係は復活を果たすことに成功しました。
以降の江戸時代は、外国との交流を断絶した「鎖国」の状態になります。
しかし、鎖国下でも唯一外国との交流が許された長崎・出島には朝鮮半島から派遣されてやってきた朝鮮通信使が定期的に訪れていました。
福岡県小倉城には、そんな朝鮮通信使が来日した様子を再現したモニュメントが展示されているため、気になった方は足を運んでみてください。