【光る君へ】藤原定子が男子を産んだにもかかわらず、公家がお祝いに来なかった理由
大河ドラマ「光る君へ」は、「まひろ」(紫式部)が主人公であるが、一条天皇と藤原定子のラブロマンスも見逃せない。ところで、定子は男子を産んだが、公家はお祝いにやって来なかったので、このあたりを確認することにしよう。
長保元年(999)11月7日、一条天皇の中宮の藤原定子は、平生昌の屋敷で第一皇子を産んだ。のちの敦康親王である。定子の喜びは一入だったかもしれないが、少しタイミングが悪かったようである。
とういうのも、この日は藤原彰子(道長の娘)が一条天皇の女御となり(のちに中宮)、初めて訪問を受ける日と重なったからである。道長は彰子の後宮に公家らを招き、宴席を設けようと計画していた。
この日の早朝、行成は内裏に呼び出され、定子が男子を産んだことを知らされた。一条天皇は行成に対して、祝いの品を準備するよう命じた。第一皇子が誕生したという、一条天皇の感激が伝わってくる。
当時、産養い(うぶやしない)といい、子が誕生すると、その日から1日おきに祝賀の宴席をもうけた。一条天皇は7日目の宴席を主催することになってので、行成にその準備を命じたのである。
一条天皇の命を受けた行成は、早速、宴席のための食器類を新調すべく、準備を進めたのである。しかし、この日は彰子が女御となった日でもあり、かなりややこしいことになってしまった。
実は、長徳の変で定子は髪を切ってしまったので、出家したとみなされていた。出家した中宮は前代未聞のことだったので、公家の間で定子のことは極めて不評だったといわれている。
実際のところ、定子が男子を産んだことを知った藤原実資は、定子のことを「横川の皮仙(かわひじり)」と呼んだ。「横川の皮仙」とは比叡山横川の僧・行円のあだ名のことを意味する。
行円は季節を問わず鹿皮の装束を着ており、それが人々の目に異様に映った。異様に映ったのは、出家したのに中宮の座にとどまっている定子も同じということになろう。
公家らは定子の男子誕生のお祝いに駆け付けることなく、彰子の宴席に参加した。先の実資も彰子の宴席に出席し、その模様を詳しく記録した。
もう一ついうならば、定子の実家の中関白家は没落する一方だった。一方で、彰子の父の道長の将来は、明るく希望に満ちていた。今後の出世を考えた場合、公家が彰子の宴席に向かうのは当然のことだったのだ。