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本能寺の変で戦死した、斎藤道三の息子とはいったい何者か?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
斎藤道三。(提供:イメージマート)

 戦国武将の血を引く人はいるが、その生涯が詳しくわからないことも決して珍しくない。斎藤道三の息子の利治もその一人で、あまり経歴が知られていないので、紹介することにしよう。

 斎藤利治が道三の子として誕生したのは、天文10年(1541)頃といわれているが、確定しているわけではない。道三が息子の義龍に死に追いやられると、利治は義龍、龍興(義龍の息子)に従ったが、それは決して長く続かなかった。

 永禄7年(1564)8月には織田信長の配下に加わり、翌年に信長から知行を与えられた。その後、利治は加治田城(岐阜県富加町)を居城としたのである。

 以降、利治は信長の命に従って各地を転戦し、天正2年(1574)には伊勢長島(三重県桑名市)に出陣した。利治は信忠(信長の息子)に従っており、一部将としての地位にあったといわれている。織田軍団内の利治は、そこそこの地位にあったようだ。

 天正5年(1577)8月、柴田勝家が加賀に出陣すると、利治も勝家に従った。翌年3月、上杉謙信が病没したので、信長は利治に越中への侵攻を命じた。越中に攻め込んだ利治は大いに軍功を挙げ、信長・信忠父子から感状を与えられた。

 利治は信忠のもとで大いに活躍したが、以降は史料上に姿を見せなくなる。天正10年(1582)3月、信忠は武田氏の討伐を行うが、利治が従軍した形跡はない。一説によると、利治は信長・信忠父子から休養を命じられたという。

 こうして迎えたのが、同年6月の本能寺の変である。当時、信長は本能寺に、信忠は妙覚寺にそれぞれ宿所を定めていた。利治は信忠の配下にあったので、同じく上洛していたのである。

 明智光秀が本能寺を襲撃すると、信忠は父を助けに行こうとしたが、村井貞勝らの助言に従って、二条新御所に移動した。信忠は誠仁親王を脱出させると、明智勢と交戦したが、最期は自刃して果てた。利治も光秀配下の斎藤利三の攻撃を受け、戦死したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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