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信友直子監督インタビュー。月数回しか家に帰れない激務。子宮手術、列車事故、乳がんと試練が続いて4/5

佐藤智子プロインタビュアー、元女性誌編集者
大好きなドキュメンタリー制作の仕事に奔走するも、体に異変が 撮影/萩庭桂大

 自身の両親を撮影したドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』が大ヒット上映中の信友直子監督のロングインタビュー、第4回目。(第1回目第2回目3回目

 24時間、仕事とプライベートの境目がないほど、ドキュメンタリー制作に没頭する生活を送ってきた信友監督。「毎月1本くらいのペースでドキュメンタリー作品を作っていて。今ならブラック職場と言われそうなくらい忙しかったけど、すごく毎日楽しかった」と。

 しかし、ついに、43歳から立て続けに3年間、病気、事故に見舞われる。

 それでもなお、好きな仕事はやめられない。

 しかし、死に直面して、考え直したこと、生活を改めたこととは。

 そして、気持ちの変化、今までの仕事の視点が違ってきて。

過去の過酷な経験を笑顔で語る信友直子監督 (C)「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会
過去の過酷な経験を笑顔で語る信友直子監督 (C)「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

―― ドキュメンタリーを撮るという仕事もドラマチックなんですが、ご自身の人生も試練が起きるじゃないですか。

信友 乳がんのことですか。

―― そうですね。子宮のご病気もされて、インドの列車事故で重傷という。これは、いったい。

信友 これはほんとに笑い話でしかないんですけど、休暇になる度に1人でふらっと旅に出てたんです。

―― これ、休暇中の話なんですか。

信友 休暇です。全然仕事じゃない。「何でインドなんですか」ってよく聞かれるんだけど、別にたまたまその時インドにいただけで。

―― インドの誰かを取材しようとしたわけじゃなく。

信友 全然、全然。ほんとに自分の気持ちの赴くままに旅をするタイプなので、何も決めないで。ある日、夜行列車に乗って何かの遺跡を見に行こうと思ったんですよ。その前にタージ・マハール見て、アーグラっていう駅だったかな。夜行列車に乗ってジャンシーっていう所に行って、遺跡行きのバスに乗る予定だったの。

 車内放送とか全然ないんですよね、インドの列車って。着く時間になっても着かないから、遅れるんだろうと思ってて。車掌さんが乗ってて、どこに着きましたって言って起こしてくれるのね。ジャンシーで起こしてくれるはずだったんだけど、その車掌さんが寝てたの。だから、とにかく起きないといけないよなと思って、起きて待ってたの。

 駅に止まっても、車掌さんは寝てるから、「ジャンシーだから降りるよ」ってゆすり起こして降りたの、私。そしたら車掌さんが起きてきて、「まだジャンシーじゃない、次の駅だ」と言われて。辺りはまだ真っ暗。何にもない所でどうしようって思った時に列車が動きだしちゃったの。私、とにかく乗らなきゃと、どっか分かんないとこに置いてかれると思って。インドの列車ってドアが開いてるから。つかまって上がろうとしたの。20代だったら上がれたと思うんだけど、40代だったから全然上がれなくて(笑)。

44歳だったから、体力がなく、ずるずるずるって滑り落ちて、走ってる電車とホームの間に入っちゃったの。「えー」ってなって、気が付いたら電車の底の部品が目の前に見えたの。もう死ぬかもって思ったんだけど、その時によく覚えてないんだけど、後から聞いたらその車掌さんが飛び降りて私のことを引っ張り上げてくれたの。そうじゃなかったら、たぶんひかれて死んでた。

事態を興味深く、かつ、冷静に見るドキュメンタリーディレクターとしてのプロの視点がいつもある 撮影/佐藤智子
事態を興味深く、かつ、冷静に見るドキュメンタリーディレクターとしてのプロの視点がいつもある 撮影/佐藤智子

一命は取り留めたものの、

骨盤骨折で半身不随になるかもと

―― そうじゃなかったらって……。

信友 たぶんぐちゃぐちゃになって。

―― その車掌さんを起こしてよかったですね。

信友 でもその車掌さんが寝てなかったら、飛び降りなくてもよかったんだけどね(笑)。まあまあ、たられば、言ってもしょうがないけど。

―― でも、一命は取り留めても重傷だったんですよね。

信友 骨盤骨折だったんです。だから気が付いたら仰向けになってたんだけど、全然体が動かなくて、どこも力が入らないし、私どうなってるんだろうって思ったら。

―― 意識はあったんですね、でも。

信友 意識はずっとあったんですよ。

―― 痛いでしょ、だって。

信友 いや、動かない限りは痛くなくて、だけど全く力が入らない、下半身に。だから、私もしかして半身不随かなと思ったら、足先が動いたから、半身不随ではないと思って。

―― 何だろう、ラッキーなのか何だか分かんない。

信友 ラッキーなのかアンラッキーなのか分かんないですよね(笑)。

―― でもインドのそんな所で、救急車とかすぐに来ないでしょ。

信友 ジャンシーっていう町はガイドブックにも載ってないようなただの乗り換えの町で、日本人なんか見たことがないとこだから。そこの町で一番の病院に救急車で連れていかれて。ほんとに野戦病院みたいなとこだった。

―― まさかそんな時でもディレクター魂で自分を撮ったりとかしないでしょ?

信友 撮ったりとかしてないけど(笑)、その時カメラ持ってないしね。だけどあれです、文章を書きました。ブログに。

―― 伝えたいって気持ちがすごいですね。列車事故っていうから、列車の事故だと思ったけど一人事故みたいな。

信友 完全に私が悪いみたいな。

―― それで九死に一生を得るじゃないですか。でも半年間、仕事ができなかったというのは、病院で、寝たきりの状態ですか。

信友 だから全然動けないから、動けないまま……。

―― よく帰れましたね、日本にね。

信友 東京で3ヶ月入院してたんですよ。その時に一番母が活躍したんです。毎日毎日来てくれたの。実家から出てきてくれて。

一つの仕事が終わり、次の現場へと急ぐ。今も忙しいのには変わりはないけれど 撮影/佐藤智子
一つの仕事が終わり、次の現場へと急ぐ。今も忙しいのには変わりはないけれど 撮影/佐藤智子

―― 2006年に列車事故に遭って、全治6ヶ月。乳がんが2007年に発覚して。どうしたんですか。その頃に何があったんですか。

信友 その頃、ほんとに不幸の連鎖だった。

―― でもそれって今思えば、ちょっと休んだほうがよかった、ということですよね。

信友 そう。だからほんとに自分で自分をがんじがらめにするような、あれも欲しい、これも欲しいみたいなのを一回やめなさいっていうふうに、ニュートラルに戻すための期間だったんだなと思って。

―― 仕事をやり過ぎていたわけですよね。病気をするまではね。

信友 その頃が一番仕事をやってた。年に10本くらいドキュメンタリーを作ってたから。

―― 家に帰るのが月に数回っていうくらいお仕事をされてたじゃないですか。でもそれってバブル時代の話じゃなくて、つい10年ぐらい前の話でしょ。

信友 40代前半とかだから。ドキュメンタリーの番組をつねに作っていて、うちの会社のバブルだったんですよ。ものすごい仕事量があって、経費も使い放題だったのね、その頃は。

―― 毎週撮ってたんですか。

信友 毎週特集を作ってたから。月に1回は企画が回ってきてたから。

―― それも毎回、毎回テーマを変えなきゃいけないし、実際撮りにも行かなきゃいけないし、企画も出さなきゃいけないし、その対象者も探さなきゃいけないしっていうことをやってたら……。

信友 そうそう。人も探して編集もしなきゃいけないし、だから帰れなかった。なんかやっぱりネタがネタだからそんなにすぐは出てくれないのよ。例えば、引きこもりのテーマでやるって言って、引きこもりの家族を探すのも大変だから。

―― 引きこもりの人がすぐにテレビに出てくれたら全然引きこもりじゃないですもんね。

信友 そうそう、そうそう。探すまでが大変。だから若年性認知症の人も、探すまでが大変だから。変な話、ここのラーメンがすごいおいしくて、とかはどこでもすぐOKだと思うの。PRになるし、誰もがハッピーになるじゃない。儲かるし、おいしそうだし、誰も傷つかないけど、誰か傷つくかもしれないネタだから。

―― 当事者が言いたくないことだったり、知られたくないこともあるかもしれないですよね。それを説得したり、相手を探す時間を合わせて、それを月に1本っていったら同時進行ですよね。作りながら先のことを考えながら、説得しながら。だってぱっと言ってぱっとやってくれるわけではなく、何回も通ったりして、関係性を作らないといけない。信頼を得ないと、というのをやってたら。

信友 そうですね。

今は食事、運動にも気をつけて、自分の時間も取るように心がけているけれど、当時は 撮影/佐藤智子
今は食事、運動にも気をつけて、自分の時間も取るように心がけているけれど、当時は 撮影/佐藤智子

朝も夜もなく仕事漬けの毎日。

プライベートの時間は全くなくて

―― オーバーワークだった頃の暮らしぶりというのは。朝は何時に起きて、というか、朝はないとか。起きるというより、いつの間にか寝てるみたいな。

信友 もう、何だろう。会社にソファベッドもあって眠くなったら寝る。で、起きてまた編集するとか、そこからロケにいくとか。

―― 朝は何時に起きるとかじゃないですよね。

信友 全然決まってない。

―― じゃ、起きた時が朝。

信友 ちょっと眠くなったら寝て。

―― よくある1日のスケジュールを教えて欲しいんですけど。ドキュメンタリーを作る人がどういう生活してるのか、一般の人は分からないので。

信友 取材に行く時は相手に合わせるから、例えば、何かあるっていったらそれに合わせていくし。

―― じゃ、もうプライベートな時間ないですよね。

信友 全然ないです。

―― 「今来て」って言われたら行かなきゃいけないし。密着なら人が動く時にも付いていかなきゃいけないし。

信友 例えば、地方だったらそこに行って。北朝鮮拉致問題の時は小浜にたぶん私1ヶ月以上いたんだよな。その前から家族の方とめっちゃ仲良くなってて。

―― 北朝鮮から帰る前の迎え入れる家族と仲良くなって?

信友 そうそう、すごい仲良かったんですよ。97年ぐらいから、毎年遊びに行ったりもしてたから。だから取材陣にお茶出してたの。

―― 拉致問題がクローズアップされてから行っているようじゃあ、遅いですよね、もう。

信友 そうです、そうです。それでみんな集まってくるんだけど、それに私は……。

―― 家族、親族みたいになってますね。

信友 そうです。

―― ほんとに北朝鮮から帰ってくるんだあって感じだったんですか。思い入れがありますね。

信友 だから、私だけ別の角度で撮っていたりしたから、他の記者さんたちからは嫌がられてたと思いますね。

―― 潜入取材とかそういうことじゃなくて、完全に家族ですね。

「仕事とプライベートの区別がつかないワークスタイル。切り替えの必要がない」と笑う信友監督 (C)「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会
「仕事とプライベートの区別がつかないワークスタイル。切り替えの必要がない」と笑う信友監督 (C)「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

―― 忙しくしてほとんど自分の家に帰れない。帰る時は、荷物を取りに行くぐらいの。逆に家にいる時は何をしてるんですか。休みは何を。

信友 何してたんだろう。

―― 洗濯しに帰るとか。

信友 洗濯も会社に洗濯機があったから。

―― 家、要らないですね。

信友 会社にシャワーもお風呂もあったから入ったし、ご飯も会社に台所があって、みんなで作ったり。

―― 合宿所みたいになってた。

信友 そうそう、合宿所みたいだったんですよ。私、結構ご飯作るの好きだから、何か作ってあげたり、ほんとに生活してた。

―― 朝から晩まで机に張り付くのではなくて、24時間仕事なのか何かよく分からない感じの。

信友 だから、私は特に仕事とプライベートの区別がつかない感じですね。だらだらしてる感じ。そういうワークスタイルですね。

―― 仕事でずっと気を遣ってて、終わったから一杯飲みに行こう、ではないんですね。

信友 全然切り替えがない(笑)。そういうのが逆に必要な人では、私はないので。

―― じゃあ、適当に息抜きして、仕事なのか楽しみなのか分かんないような感じの。

信友 ような感じです。私はね。でもそうじゃない人もいっぱいいると思うけど、私は結構そういうタイプ。今だとブラック職場って言われそうだけど、でも毎日本当に楽しかった。

―― それはその仕事が合ってたから。でもやっぱりそんなに忙しかったから、体調を崩してしまった。

信友 だから病気になったんですよ。

いつも明るい信友監督。当時は、忙しくても仕事が楽しい毎日。でも、体は悲鳴をあげていたかもと振り返る 撮影/佐藤智子
いつも明るい信友監督。当時は、忙しくても仕事が楽しい毎日。でも、体は悲鳴をあげていたかもと振り返る 撮影/佐藤智子

仕事が楽しくて、麻痺していたかも。

さすがに乳がんになって死に直面してから

―― それまでは気付かなかった? 何か異変に。

信友 私、もともと婦人科系が弱くて、30歳過ぎた時にも子宮筋腫で筋腫だけ取ったのね。その時も「まだ小さいのがあるから、大きくなりますよ、この後」って言われてたんだけど、どんどん大きくなって、それこそ45歳が乳がんでしょ、44歳が事故でしょ、43歳の時に子宮筋腫があまりにも大きくなって、もういい歳だし、43歳だし、子どももたぶん産まないだろうから、全部子宮取っちゃおうってことにして。すっごい生理が重かったの、それまで。

―― でも女性にしてみたら……。そこでは仕事をセーブしようとは思わなかったんですか。

信友 うん、その時はね。仕事が楽しかったから。だから子宮筋腫を取った時に生理がなくなったのが一番うれしかった。ずっときつかったから。そんなに子どもが生まれなくなるショックはもうなかったみたいな。ちょっと麻痺してたのかも。ワーカホリックで。

―― だって乳がんで胸がっていうのもショックだけど、子宮のこともショックだから。その時はもう仕事に追われて麻痺していたのか、それともアドレナリンが出て、もう交感神経がずっと優位というか。仕事に対するワクワクが止まらない感じだったんですかね。

信友 かもしれないし。

―― でも、子宮のことがあって、事故にも遭って、それでもまた復活して頑張ってやってて、乳がんになりましたとなると、考えますよね、さすがに。

信友 ほんとに事故の頃から、何かちょっとこれは人生考え直したほうがいいなとは思い始めてた。なんか今までがおかしかったんだよなって。いろいろ立ち止まって考えて、3ヶ月間ずっと天井に向いて寝てるだけだから。

―― でも、忙しい時も、ご病気になった時も含めて、親は何か言ってきたんですか。「もうちょっと休みなさい」とか「家に帰ってきたら」とか。

信友 「体に気を付けなさい」とは言われてたけど、いつも言うようなこと。仕事ばっかりしてたから。

―― だって、自分の家に月に数回しか帰れないくらいだから、実家まで帰れないでしょ。

信友 だから、そういう時に2~3年帰らなかったりしてて。

―― 東京に両親が来てくれるってことはなかったんですか。

信友 来たりしました。その頃は2人とも元気だったから。でも、親が来てても私は構わず仕事に行ってて、2人ではとバスに乗ったりしてましたよ。別に父と母が来たから、一緒に何しようっていう感じでもなかったかな。

地元である広島県に映画の舞台挨拶や取材、打ち合わせに度々帰って。この日は福山と尾道へ 撮影/佐藤智子
地元である広島県に映画の舞台挨拶や取材、打ち合わせに度々帰って。この日は福山と尾道へ 撮影/佐藤智子

―― でも乳がんに関しては、さすがにやっぱり気持ちが折れちゃったんですか。

信友 がんってやっぱり死を想像するから。

―― ステージは?

信友 1だったんで。っていうか、私、今まで親戚にがんになった人がいなかったから、がんだけにはならないだろうって何となく高をくくってたから。

―― 仕事でもあんまり病気系の取材はしてないんですかね。

信友 そうですね。そうかもしれない。

―― 乳がんになって初めて、死というものに直面して。最初、お母さんにはどういう話をされたんですか。

信友 何て伝えようかなって一晩考えて、次の日に電話したと思うんですけど、そしたら案外冷静で、「じゃあ、いつ行こうか」と。

―― そういうお母さんに救われたわけですよね。今回の映画で「世話をされたり、迷惑かけたくない」とお母さんが言って、でも、信友監督が「でも、お母さんが助けてくれたじゃない」って言うところがある、あれもすごく泣いちゃうんですけど。何をいろいろしてくれたんですか。お母さんはどういうことを。言葉がけとかも。

信友 なんか笑わせてくれたのが一番ありがたかったですよね。普通に接してくれて笑い飛ばしてくれた。

―― 抗がん剤で髪が薄くなった時もね。

信友 そうそう、そうそう。親によっては一緒になって悲しんで泣いちゃったりする人もいると思うんだけど、そういうのは全くなかったから、だから楽だった。普段どおりだったから。

―― それはあえてですか。そういうキャラクターなんですか。

信友 あえてやったんじゃないかな、たぶん。お母さんが「泣いてもしょうがないじゃない」みたいなことを言っちゃうから、ほんとはどう思ってたのか聞いたことはないけど、でもあえて普段どおりにしてたんだと思いますよ。

―― 実家に帰れない時間が2年、3年あっても、絆がやっぱりちゃんとあってね。

信友 電話はしてるからね。

―― 電話はしてた。それはどういう電話を?

信友 「どう?」みたいな普通の電話です。

―― 仕事の話とかします?

信友 全然しないです。でも「この番組をやるから見てね」っていうのは言いましたけど。

自身の乳がん体験を撮影した経験から、何かあったら映像に残すと、現実を引いて見れるし、客観的になれて楽かもと語る 撮影/佐藤智子
自身の乳がん体験を撮影した経験から、何かあったら映像に残すと、現実を引いて見れるし、客観的になれて楽かもと語る 撮影/佐藤智子

食べるものを変えて、運動をして、

生活を一変させたら、徐々に気持ちも

―― 信友監督の優しい語り口調が、過激派とかの取材をしてる人の口調じゃないので。あれは家族用に優しくなってるんですか、それともいつも柔らかい感じなんですか。

信友 っていうかこの声だから、鋭いことを言っても鋭く聞こえないっていうことだと思うんです。

―― 天性のものだなと思うんですけど。試練があっても割とさらっと話されるから。普通こんなことがあったら、それだけで1本のドキュメンタリーできてしまうくらいの。それが3年間で立て続けにあった。よく復活したなって思うんですけど、さすがに人生観が変わって生活を変えたと別のインタビューでおっしゃってましたが、どう生活を変えたんですか。

信友 まず会社を辞めた。会社にいる限り、私が終わっても責任ある立場だと、後輩の面倒も見なきゃいけないし、いつまでたっても仕事はいっぱいあるから、だから辞めてフリーになって自分の好きなペースで仕事をしようと。1人食べていければいいからと思ったのと、ほんとに死にたくないから、乳がんの主治医に「どうしたら再発転移しないですかね」って聞いたら、「とにかく免疫を上げること。そのためには代謝を上げるように運動しなさい。あなたは手先が冷たいから」と。

―― それで運動をするようになるんですね。

信友 うちの近くにちょうどその頃スポーツジムができて、今まで運動なんか縁がなかったけど、死ぬよりいいから運動しようと思って通い始めて。それまでは食生活もつきあいで外食してたり、結構お酒も飲みに行ってたんですよ。合宿生活みたいにしてると、みんなで飲み行ったりするじゃないですか。そういうだらだらした生活はやめて、例えば、農協の、地産地消の野菜や八百屋さんで買って、お肉もお魚も産地の分かるものを買って、自分でちゃんと料理してみたいな。

料理上手な信友監督。実家で作るこの日のメニューは、地元名産の牡蠣が入ったうどん 撮影/佐藤智子
料理上手な信友監督。実家で作るこの日のメニューは、地元名産の牡蠣が入ったうどん 撮影/佐藤智子

―― じゃあ、ほんとにがらっと変わったんですね。

信友 そんなにがらっとというわけではないけど。

―― がらっとですよ。だって寝食を分けられない人だったわけでしょ。会社にいる時はいつ寝ていつ起きるとも分からないという。

信友 うちでもいつ寝ていつ起きるか分からないような生活ですけどね(笑)。

―― でも食べるものはちゃんと、朝昼晩って食べるようになったんですか。

信友 まあまあね。基本、自分で作って。

―― どんなメニューを?

信友 結構朝はちゃんと作りますよ。

―― 私、びっくりしたのは、すごく仕事を忙しくされているのに料理上手で、実家に帰られてもお母さんの手料理だけでなく、ご自分も作られていて。

信友 だけど、母が作らせてくれないんですよ、私には。

―― スーパー完璧主婦だからね。

信友 私が作ると機嫌が悪いから(笑)。「私の城に入ってくんな」みたいな感じだからできなかったんだけど、見てたからやり方を。

―― 見て習った。

信友 私、食いしん坊だし、好奇心があるから、ご飯とか食べに行ったらこれどうやって作るんだろうとか、いろいろ考えて。やっぱおいしいもの食べたいじゃないですか。だからいろいろ工夫はしてる。

―― 生活を丁寧にして、ちゃんと寝て、運動もして、食べるものを変えて。そしたら、やっぱり変わりました? 体調とか。

信友 体調というよりも気分が変わった。イライラしなくなったし。

―― 幸せのハードルが下がって、いろんなこともありがたく思えるようになった。

信友 そうそう、そうそう。

病気、事故、どんなことがあっても

ドキュメンタリーを撮り続けるのは

―― そうなってくると、追うテーマが変わるんですか。ドキュメンタリーのテーマが、老いとか生死になったとか。

信友 そうかも、そうかも、でも、そう言われたらそうかも。

―― 今まではワクワクとか知りたい好奇心から、割とみんながやらないようなことを、ちょっと奇をてらったことをやるじゃないですか。

信友 奇をてらった。今までカメラが入ったことがない所に、第一に入ろうみたいな。

―― パイオニア的なね。突撃的な。

信友 スクープ、撮ろうみたいな感じだよね。

―― それが生活を変えたら、どういう目線になるんですか。

信友 どうなのかな。でも何となく興味があることはやり尽くしちゃった感じはあるかも。

―― それはそうですよね。

信友 だから、もういいかなと思ったのもあるかも。なんか本数もぐっと減ったし。

―― で、丁寧に生きるっていうことをやり出したからこその。

信友 親のこともちゃんと見えてきたのかもしれないし。

やっぱり人の話を聞くのが好き。打ち合わせでも笑顔が絶えない 撮影/佐藤智子
やっぱり人の話を聞くのが好き。打ち合わせでも笑顔が絶えない 撮影/佐藤智子

―― 3年間立て続けに事故や病気をして、もうドキュメンタリーから足洗おうとはならずに、ペースはダウンしたものの、ドキュメンタリーをやっぱり撮リ続けるっていうのは何なんですか。やめられない何かが。

信友 私、ドキュメンタリーを撮ってるという意識があんまりないのかな。仕事とプライベートの区別がついてないのかもしれない。仕事やってますみたいな感じではないのかな。

――じゃあもう、生きてるっていうことが何かを伝えることなんでしょうね。

信友 仕事とプライベートの区別をつけて何とかみたいな性格ではほんとにないので、だらだらしてるので(笑)。

―― だから続けられるし、悲壮感がないんですよ。仕事を頑張ってやってきた、もういいだろうっていうのじゃないんですよ。それが一番びっくりしたんですよ。信友監督の声も可愛いんだけど、お会いすると、とても寝ずに仕事してきた人に見えないもの。ほわっとしてるから、その辺がすごいな。

信友 でも働いてた時の人に言わせると、「あの頃は険があったよね」とは言われるから、たぶん変わったんだとは思います。

―― どういうところがですか。

信友 もっとゆったりしてきたと思うし、あの頃はやっぱりこの編集をしながらこっちの準備もしてみたいな、追いまくられてたから、余裕がなかったと思う。

★信友直子監督ロングインタビュー(全5回)5/5に続く

 1/5はこちら

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 3/5はこちら

プロインタビュアー、元女性誌編集者

著書『人見知りさんですけど こんなに話せます!』(最新刊)、『1万人インタビューで学んだ「聞き上手」さんの習慣』『みんなひとみしり 聞きかたひとつで願いはかなう』。雑誌編集者として20年以上のキャリア。大学時代から編プロ勤務。卒業後、出版社の女性誌編集部に在籍。一万人を超すインタビュー実績あり。人物、仕事、教育、恋愛、旅、芸能、健康、美容、生活、芸術、スピリチュアルの分野を取材。『暮しの手帖』などで連載。各種セミナー開催。小中高校でも授業を担当。可能性を見出すインタビュー他、個人セッションも行なう。

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