グリコ森永事件が転機。98歳の父が娘に願う「好きなことをしろ」を極めた末のワクワクする仕事とは3/5
ドキュメンタリーの名手と言われる、信友直子監督(映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』が大ヒット上映中)のロングインタビュー、第3回目。(第1回目、第2回目)
98歳にして、新聞4紙を毎日読む知的な父。京大を目指すも戦争で断念。その無念を果たすように、東大に合格した信友監督。卒業後、森永製菓入社、社内コピーライターに。
その後、テレビ番組制作会社に入社。2010年に独立して、フリーディレクターになる。身体障害者のお笑い芸人、年老いた大道芸人の赤貧な暮らし、北朝鮮拉致問題、ひきこもり、若年性認知症、アキバ系、ギャル、草食男子の生態など、あらゆるテーマのドキュメンタリー作品を100本近く手がける。
信友監督の好きなことを仕事にした生き方、ワクワクする快感とは。
―― 広大附属から東大と言ったら、広島県のエリートコース。すごい自慢の娘だったんじゃないですか、正直な話。あんまりこういう話は自分から、「私、すごかったんです」って言えないから、あえて聞いちゃうんですけど(笑)。
信友 東大に入った時は、父曰く、一生でいちばん嬉しかったらしいです。というか、それは自分がやりたかったこと。自分の夢を叶えてくれたから。
―― お父様はすごい知的な方で、98歳になる今も毎日、新聞を読んで、語学の勉強もされていますが、ご自身は、京大に入りたかったと。
信友 そう。それをずっと今も言っているので、よっぽど無念なんだと思います。私、生まれた時から聞いているから。洗脳ですよね、要は(笑)。
―― お父様はご自分が勉強できただけあって、英才教育というか、勉強しろとか言われたりしたんですか。
信友 いや、完全に私の好きなようにさせてくれたんですよ。別に勉強しろとも言われないし。洗脳だなと思ったのは、ほんとに小さい頃から一高(東大教養学部)とか三高(京大教養学部)ってよく会話の中に出てきてたんですね。一高や三高の寮歌のレコードがうちにあって、「嗚呼玉杯に花うけて」とか「紅萌ゆる」をずっと父が聴いてたし、歌ってたんですよ。「わしはここに行きたかった」っていう話をずっとされてたんです。映画の中で父が新聞読みながら鼻歌歌ってるじゃないですか。あれが三高の寮歌です。いつも歌ってる。ほんとに何十年、私が生まれてからずっと。「わしはほんとは三高に行きたかったのに、戦争があった」と……。
戦争さえなければ……。
98歳になる父の無念さ。
娘には好きなことをさせたいと
―― 戦争さえなければね。
信友 それに、父の父が早くに亡くなったので、母親と妹2人の面倒見なきゃいけなかったからと。またその話かよっていうぐらい。だから「おまえは好きなことをしろ」と。別に、京大に行けとは言わなかったけれど。
―― 自分の夢を託す、のではなく。
信友 京大の言語学の研究室があって、そこに入りたかったみたいなんだけど、いい先生がいてね。だけどそれはできなかったから、もしおまえは言語学をやれって言われていたら私、ストレスだったと思うんですけど。「おまえはとにかく、わしがこれだけ無念なんだから、無念のないように好きなことをやれ」と。
―― それはどんな道でもいいから。
信友 「好きなことをやらせてやる」と。小さい頃から「勉強しろ」とは全然言われないけど、「人に感謝しろ」「人に迷惑をかけるな」「人に迷惑かけなければ何やっても構わない、好きなことをやりなさい」って言われてて。参考書や本の類いはいっぱい買ってくれましたね。
―― その辺の血というか、遺伝子はお父様ですよね。勉強お好きだったんでしょう?
信友 好きでしたね。問題がクリアできると楽しいじゃないですか。ゲーム感覚だと思うんですけど、当たってると楽しいから、どんどんできるようになるみたいな。
―― 知りたいという知識欲。好奇心旺盛なんですね、性格が。
信友 そうだと思います。
―― 知らなかったことを知っていく感じとか、知識が入ってくるのが好きなんですか、小さい頃から。
信友 そうですね。そうだと思います。知らないことを知りたい。
―― だから自分から話を聞きにいったり。人の話を聞くというサービス精神はお母様からで、知識欲という、知ろうとする気持ちはお父様の影響ですよね。98歳で新聞や本を読まれていてすごいですよね。目もいいんですね。
信友 目はいいんですよ。ほんと、辞書にめっちゃ書き込んでるんですよ。新聞4紙取ってるので。気になった新聞記事を切り抜いてるんです。で、知らない単語は辞書を引いて調べて。だから時事にも詳しいですよ。
―― 家にも本がずらーっと置いてあって、大学教授の部屋みたいな。
信友 そうですね。本は辞書ですね。今もまだ英語をやってるのは、ほんとに無念だったんでしょうね。それこそ大学で研究できてたら、いい加減やめたと思うんですよ。それができなかったから、まだやってるんだと。諦めがつかないから。
―― 普通だったら、例えば大学行きたかったのに行けなかったっていったら、そこで人生がシフトするけど、ずっと好きなこと、その思いが続いてるんですね。
―― 東大に入られて大喜びをされて、将来はこういう職業に就いてほしいみたいなことは、ほんわか言われたことはあります? それも言われたことはない?
信友 全くないです。
―― 好きなようにと。
信友 うん。
―― でも一人娘で、東京に行くということも寂しそうにもせず?
信友 だって私、広島に残る選択肢はなかったんですもん。親から与えられてなかった。まず、広島の学校は受けなかった。
―― それは、東大狙いだったから?
信友 東大と早稲田受けたんですけど、東京に出る一択だったんです。私の記憶では、親に出された感じなんですけどね。私が出たいって言ったのかな。もうなんか物心ついた時には、私は父の期待を背負って東大に行かなきゃって思ってたかもしれない。
―― 実際その通りになって、やっぱり近所でも有名な、信友さんの娘さん賢いみたいな感じで言われてたわけですよね。
信友 高校も1人で広島に行ってたからね、それはそうですね。片道2時間弱かかりました。だから部活もできないしね。だって往復4時間、6時台の電車に乗っていくんですから。
―― その娘を支えるためにお母さんは4時に起きて。
信友 そうそう。お弁当作って。
―― でも、教育ママみたいな感じはないんでしょ。塾に行きなさいとか。
信友 全然、私、塾に行ってないし。
―― 塾に行かず、独学。お父さんが横で本を読んでいるそばで受験勉強するんですか。親子そろって勉強みたいな。
信友 私は私の部屋があって、父は家に帰ると、本を読んだり何かを書いたりとかしてたので、そういうものだと思っていました。
―― じゃ、お父さんが家でぼーっと寝てたり、飲んだりしてるというイメージは一切なく、勉強してる印象ばっかりですか。
信友 そうですね。全然飲んだりしないので。いわゆる飲む、打つ、買うなんて、何もしない。だから何かちょっとつまんないなとも思ってて。真面目一方で、何の面白みもない地味な感じで。寡黙ですし。
―― でもそれが当たり前で。家は、図書館みたいなイメージでしょうか。
信友 そうそう、そうです。静かな図書館って感じです。だから語るべきドラマもないんですよね。ちっちゃい頃。ほんとに。
―― どっか連れてってくれたりはしなかったんですか。
信友 あんまり行った記憶もないんですよね。おばあちゃんがいたので、おばあちゃんを1人で置いとくのがって思ったのかな。旅行に行く家でもなかったし、楽しみがあんまりないというか、刺激がなかった。でもほんとに本だけはいっぱい買ってくれました。岩波書店の少年少女文庫みたいなのは、全部持ってる。だから本はすごい、好きだったし。
―― 親の期待を背負って、それがプレッシャーになる人もいるじゃないですか。親がたとえ行けと言わなくても、反発して不良になる子もいるかもしれないのに。
信友 そうですよね。よくならなかったなと思って、そうなってもおかしくないですよね。
―― でもそれが、逆に勉強意欲を持たせるというか。お父様がそんなに朝から晩まで勉強するってことはきっと楽しいんだろうなって感じさせるものがあったのかもな。
信友 でも、何だろう、強要してる感じではなくて、父にこの間聞いたら、父と初めてそんな話したんですけど、いやなんか、恥ずかしいんだけど、「おまえがそんなに頭がいいっていうのは、ちょっとびっくりしたわ」みたいなことを言ってて。
―― 今さら?
信友 「トンビがタカを生んだと思った」とか言ってて。「こんな勉強のほうにいくとはな。お父さんはびっくりしてなあ」みたいな。98歳になって言うかみたいな(笑)。
憧れのコピーライターになれるはずが、
まさかのあの大事件が起きて。
マスコミの取材攻撃を受ける中で出会いが
―― 就職はメーカーの森永製菓に入られたのは、何か理由があったんですか。
信友 それは単純で、文章書くのが好きだったんですよね。大学4年が就職活動時期だったんですけど。バブルのちょい前です。私、コピーライターになりたいと思って。っていうのも、その年にコピーライターが突然大ブームになったんですよ。
―― 糸井重里さんとか。
信友 そう。糸井重里さんが西武百貨店の「おいしい生活」っていうコピー1行で500万円もらったっていう都市伝説があったりとか。林真理子さんとか、仲畑貴志さんとか、急にコピーライターが一躍有名になった時期で、私、コピーライターになりたいって思ったの。
―― 流行りのカタカナ職業ですからね。
信友 なんだけど、その頃って、男女雇用機会均等法の前だったんですよ。だから電通とか博報堂とか全部男子のみの募集だったんです。まだ、その時期は。それでいろいろ探したら、企業で社内コピーライターをやってるところがあるって。森永製菓もそうだったんですよ。森永は広告の歴史があって、「大きいことはいいことだ〜、森永エールチョコレート♪」とか、ツイッギーの小枝とかチョコフレークとか、社内でコピーを書いてたんですよ。で、募集があって、それで入ったんです。
―― じゃあ、やりたい仕事がはっきりあって、それをやってる会社に入った。職種に就いたという。
信友 そうです。コピーライターになるという。でも、そうこうしてたら、グリコ・森永事件がその年に起きて。
―― 入社した年に?
信友 はい。4月に入って、実は3月にグリコ事件だったんですよ。グリコの社長が小屋に監禁されてどうのこうの。私は、森永に入ってすぐ、コピーライター養成講座に半年間研修に行って。「10月からデビューね」って言われてて。そしたら、9月に「グリコ犯、森永を脅迫」ということになってしまい……。広告どころか、製品そのものがスーパーにもどこにも出せないみたいな。全部撤去ですから。森永の製品に毒入れたという事件で、毒入り危険みたいになって。
―― 大変なことですよね。
信友 ほんとに大事件だから、いろんな取材の人が来たわけですよ。森永の本社の前にもマスコミが張ってたし。工場直送の1,200円ぐらいのお菓子をビニール袋に詰めて、1,000円で売りますみたいなのを社員が直売りしてたんですよ。私もいろんな所に行って。新宿や渋谷の街頭とか。社員全員がやってましたよ。だって他にやれることがないんだもん。
―― じゃあ、コピーライターの話も立ち消えになるわけですね。
信友 広告全面ストップで、いつ再開するかも分かんないし、いつ売れるかも分かんないし。販売ルートがなくなり、何もかもストップですよ。
―― コピーライターになると思っていたら、いつの間にか売り子をしてて。そこにマスコミが直撃取材で来るわけですね。
信友 私、新人OLだったから、かわいそうと思われたのか、話を聞かれることが多くて。ほんとに大事件だから。だって、年間のトップ1のニュースだったんですから。
ドリフより向田邦子ドラマを観てた子供時代。
いつか、憧れのドラマ作りを、と思い始めて
―― その取材受けてる時はどんな感じだったんですか。
信友 もう、マスコミ嫌いだったんですけど、その中の女性の、どこの人かも名刺ももらってないから分からないんだけど、お姉さんみたいな記者さんが来てくれて、いいコメント欲しいみたいな突撃のノリじゃなくって、初めてちゃんと私に話を聞いてくれようとする人がいたんですよ。その人に話をしてるうちに、なんか「私、親にほんとに申し訳ない」みたいなことを言って、そしたらめっちゃ泣いたんですよ。
―― そのインタビューの人に話を聞いてもらって。
信友 そう。親が4年間学費も出してくれて仕送りもしてくれて、やっと自分のやりたい職業に就いて、今からって時にと、事件になって人前で初めて泣いたんですよね。そしたらめっちゃすっきりしたんですよ。めっちゃ救われた気分になって、なんかすごいこのお姉さんに感謝だなって。で、こういう仕事もいいなって思ったんだと思う。初めて気持ちに寄り添って聞いてくれて、こういう取材もあるんだと。
―― 話を聞いてくれて、自分がまさか泣くとも思わないし、引き出されたっていうか。
信友 泣こうなんて思ってなかったのに、私こんなこと考えてたんだとか、深層心理で、初めて自分の気持ちに気付いたっていう経験を自分がしたんです。
―― それで、こういう仕事があるんだ!! と思い始めた。そこからコピーライターじゃなくて、シフトチェンジするきっかけになったんですか。
信友 すぐというわけではないんですけど、でもそういうことがあったことは事実。正確にいえば、ドキュメンタリーのほうに移行してから、そういえばあれがきっかけだったと。思い返してみたら、あの体験は大きかったなと思う。
―― 森永入って、コピーライターになろうと思って、事件が起こった。で、テレビの制作会社に入ったのは?
信友 それはもうほんとにまた別の話で。森永事件が半年後に収束して、広告が再開して、コピーライターの仕事も始めて、楽しかったんですけど。コマーシャルフィルムの制作現場にも立ち会うんですが、スタジオで実際に作ってる人がすごい楽しそうで。クライアントとして行くと、「そこ座っててください」ってただ見てるだけで絶対加われないので。ほんとは私一緒にやりたいのに、口出しすると面倒くさくなるじゃないですか。だから口も出せないし、すごい疎外感だったんですよね。「あっちの方が楽しそう。あっちに行きたい」という気持ちがどんどん強くなったんです。それも、同じやるんだったらコマーシャルとかの商品を紹介するんじゃなくて、テレビがやりたいなと思って。
―― そこで映像というか、現場感を味わいたいと。
信友 初めて現場を見て楽しそうと思って。そして、そういえば私、(脚本家の)向田邦子さんが好きだったって思い出して。大学の頃に向田邦子さんが亡くなったんですよ、飛行機事故で。その時、すごいショックで、これからもずっと作品を見たかったのにと。で、あんなのがやれたらいいなって思って、何を思ったのかドラマの制作会社に入ったんです。
―― マスコミで、人の話を聞くのもいいなというのが残りつつ、映像の現場も残りつつ、でも、ドラマを作りたいと。
信友 そうそう。向田邦子さんみたいなドラマを作りたいと。何だろうな、迷走してますよね。
―― 今、お話をずっと聞きながら、結果的に作れているなあと思う。ドキュメンタリーなんだけど、世界観が向田邦子さんのドラマの感じがするから。
信友 そうね。ほんとにDNAに染みついてるのかも。母も向田邦子好きで、一緒にドラマを見てたんですよ。みんながドリフのお笑い番組を観ている時に、向田邦子さんのドラマ「阿修羅のごとく」を見ていたのね。今考えると、三角関係とか、男と女のもつれのドロドロを家族で見てたわけ。こたつで。
―― ドラマチックなこととか、人間のそういうのも好きだったんですね、たぶんね。
信友 たぶんね。
―― 今、話を聞きながら点と点がいい感じでつながって。
信友 かもしれないですね。
―― 向田さんも家族のドラマじゃないですか。ホームドラマ的な。
信友 そうですね。別に向田さんを意識してこのドキュメンタリーを作ったわけでは全くないけど。
ドラマを作れると思いきや、
たまたま配属されたドキュメンタリー班で
才能を発揮し始めて
―― ドラマの制作会社に入って。ドラマを作れると思いきや、だったんですよね。
信友 ドラマ『男女7人夏物語』の担当につけなかったっていう、まず挫折としてあって。
―― 時代的にも一番勢いがある頃ですよね。トレンディードラマの頃ですもんね。
信友 そうそう。さんまさんもすごい人気者で、さんまさんとしのぶさんが一緒に、鎌田敏夫さん脚本でドラマやるなんてすごかったから絶対つきたいと思ったのに、つかせてもらえなかったんですよ。
―― 今、ふわっと聞いてるけど、やりたい仕事ができる会社になんだかんだですぐに入れちゃうという、やっぱり優秀だったんですね。それが例えば、TBSに入ろうとか、そうじゃなくて、どうして制作会社に。やっぱり現場が好きなんですかね。
信友 その頃には、作ってるのは制作会社なんだなってわかってたからかな。
―― ちょっと玄人的な調べ方っていうか。広告代理店が女性の募集がないからといって、諦めずに違う手を探すというのが。企業の広告、コピーをやれる場所があるとかね、よくぞ調べたなあと。
信友 その頃、世の中が広告ブームだったから、サントリーとか花王とか森永とか、割とクローズアップされてたんですよ。だから知ろうと思わなくても雑誌で特集してたから。
―― つまり、広告業界がブームの時に広告にいってるし、ドラマがブームの時にテレビ業界にいってるから、すごい。みんながやりたい仕事をやれてるじゃないですか。
信友 今思ったらそうかもしれない。
―― まずやりたいことを思ったとしてもそこになかなかいけないですよね。だけど、ドラマの制作会社にたどり着けたけど、ドラマ班じゃなかったこともちょっと面白いですよね。それが後々、今につながってるわけだから。
信友 そうですね。確かに、ドラマ班じゃなくなって、ドキュメンタリー班に行ったらこっちのほうが面白いじゃんって思って、もう戻りたくなくなったことは確か。
―― 筋書きどおりのドラマではなく、筋書きがないドキュメンタリーのほうが面白くなって。
信友 そう。自分では想像もつかなかったようなことが起きるから、ドキュメンタリーって。「ドキュメンタリーの神様が来た」って言ってたんですけど、この快感を覚えると、もう戻れない。
―― それに、信友監督が扱ってきたテーマが過激。今、聞いても最先端というか。誰も取り上げていない時に。取材相手の方もさまざま。右翼、過激派から、アキバ系、ギャル、草食男子の生態や、貧困問題、部落問題、北朝鮮の拉致問題、ひきこもり、若年性認知症とか、今でこそドラマになったりしてるけど、当時なんていったらね、何それっていうことでしょう。
信友 若年性認知症は、一番最初、『Mr.サンデー』の枠でやったんですけど、その時にスタジオで、「今まではボケと言ってましたけど、認知症と呼ぶことになりました」って、フリップを出したぐらいですから、誰も認知症っていう言葉を知らない時期です。2005年ですね。
―― 他にもその後に社会問題になってることばっかりじゃないですか。
信友 北朝鮮の拉致問題は疑惑の頃からずっとやってたので。
―― 北朝鮮の話はどういうことでそれをやろうとなったんですか。
信友 初めは何だったのかな。たぶん、私の友達の友達に在日の子がいて、その子の家族が、いわゆる帰国船で帰って大変な思いをしてるって聞いて、そこから北朝鮮問題とかに。
―― だからもう、すごい世の中の最先端を行き過ぎてて。それが最初から撮ろうと思ってただけじゃなくて、たまたまということが多いですよね。
信友 なんか面白いほうに、自分の興味があるほうにいったら、たまたまそうなったってことだと思いますよ。ディレクターとしての最初は、中核派の要塞に潜入して、「爆弾どこですか」って聞くやつですね(笑)。
―― それを笑顔で普通に聞いたんですよね。
信友 そうそう。
中核派の要塞に潜入。
「爆弾どこですか」と笑顔で取材。
「信友マジック」と言われる手法とは
―― その中核派の取材は、20代ぐらいですよね。
信友 たぶん30代になってからじゃないかな。
―― そういうテーマでやりますっていうのも自分で決めたんですか。
信友 そうです、そうです。すごい面白そうだなと思って。やっぱり見たことないものを見たいとか、ちょっとやけどするかもしれないけど、触ってみたいとかあるじゃないですか。駄目って言われたら見てみたいとか、どこまで怒らせないで済むだろうとか、そういうワクワク感とかが。
―― そういうかわいらしい顔で、にこにこしながら過激な所に行くのが、ものすごいギャップですよね。
信友 これだからたぶんしゃべってくれるんじゃないかな。もっと若かったから、もっと無邪気に見えたんで、右翼の怖いおじさんとか、いわゆる小指ない人とかの所にいって、「そうすか」みたいに聞いてたんだけど、私だから気を許してしゃべってくれちゃうみたいな。
―― そうですよね。ごつい男の人が来たら、警戒してしゃべるのを控えるかもしれない。
信友 そうそう。
―― じゃ、社内でも怖いもの知らずみたいな感じになっちゃってるんですね。
信友 そうです、そうです。
―― ほんとに1人で行ってたんですか。
信友 そうですね。右翼とか、私にやらせると面白いんじゃないかっていう、「ちょっとやってこいや」みたいな。
―― じゃあ、信友監督の取材は評判だったんですね。
信友 たぶんそうだと思います。
―― 人の心をほぐすみたいな。
信友 なんか「信友マジック」ってよく言われていて。
―― 強面の人でもやんわりと話してくれる。
信友 いつの間にかしゃべってるとか。
―― それはすごい。
信友 みたいなのが、ほんとに撮り屋なんですよ。ディレクターもいろんなタイプがあって、編集とかで美しくまとめるみたいな、NHKスペシャルとか、映像としてきれいに。ああいうのも一つの作品だし、だけど私は撮ってきてなんぼみたいな(笑)。
―― その時、その時の瞬間を撮って、リアルなドラマを撮ってるってことですよね。
信友 こっち(撮る側)との化学反応を撮ってる気がする。私が行って撮るっていうことは、結局日常を撮りに行くというけど、私がカメラを持って行ってる段階で、もう日常生活じゃないわけだから。カメラが来る日なわけだから、向こうにとっては。だけど、カメラだけじゃなく、私が行くわけだから、私がほんとに聞きたいことを聞いて、その人が答えてっていう化学反応。私が行くことで何が起きるかっていうことを撮るしかないわけだから。
―― だから身構えてる時に、不意に普通の疑問として、「爆弾どこですか」って聞かれたら、素の反応が思わず出ちゃいますもんね。まさかそんな? みたいな。
信友 ほんとにあれはその場のアドリブでした。
―― もうそれは誰にもマネができないから。信友監督の元々のキャラクターがピュアなんですよ。ほんとに知りたいわけでしょ。爆弾がどこにあるのか(笑)。
信友 そうです、そうです。ほんとにその時に思ったことを言ってるだけなので、別になんか私は爆弾どこにあるかを聞きに行くぞって前から考えていたわけじゃなくて、たまたま行ったらゴミがすごいいっぱいあって、「これどうしたんですか」って言ったら「ガサが来たからね、出せなかったんだよ、今日」って、「え、中身何すか、爆弾すか」って言って(笑)。「そんなわけないでしょう」って向こうが言うから、「じゃあ、爆弾どこにあるんですか」って言ったら、「そんなことは答えられません」って。ないって言わないのかみたいな。ないわけじゃないんですねみたいな(笑)。
―― 向こうもまさかの(笑)。
信友 たぶんゴミがなかったら、私も聞いてないと思う。
―― その現場、現場で見て、それこそ子どもが「どうしてこうなの、何なのこれは」って普通の疑問をただ問いかけてるだけってことですよね。それが真髄をつくと。
信友 私が面白いと思うのと同じように、面白いと思ってくれる人はいるはずだって。
ドキュメンタリー作品は100本近く制作。
やめられないほど、好きな理由は
―― それがマジックなんでしょうね。何だかんだでドキュメンタリーを100本ぐらい撮っているとか。
信友 たぶん。私がよくやってたのは『Mr.サンデー』の枠の企画コーナーだったので、そういうのも合わせると、100本ぐらい。
―― 好きですね、ほんとに。
信友 ほんとに好きですね。すごい面白い。
―― どこら辺ぐらいから、「私、ドキュメンタリー好き」となったんですか。
信友 制作会社のドラマ班に一回戻らされたの。右翼とか被差別部落とか統一教会とか、いろんなのをやって、信友怖過ぎるからドラマに戻そうっていって、強制的に(笑)。それもあって、制作会社を辞めたんですけど。
―― そんな辞めるぐらい、ドラマはどうでもよくなっちゃったんですか。
信友 そうですね。戻されて好きなことあんまりやらせてもらえないな、不自由だなって思ったのと、ドラマの制作会社だからドキュメンタリーをやろうと思ったら、一緒にやる人がいない、1人だから。たまたま中核派やった時に、他のプロダクションに誘われて。
―― そっちは過激なドキュメンタリーも全然OK?
信友 全然OK。
―― それで、どっぷり入ることになったんですね、ドキュメンタリーの世界に。
信友 そうです。そこは何やってもOKみたいな感じだったから。
―― 今さらなんですけど、ドキュメンタリーの何が一番好きなんですか。
信友 ほんと思いがけない展開になる、その快感ですよ。
―― やめられない感じ?
信友 こんなものが撮れちゃったとか、ほんと何だろう、快感でしかない。すごいほんとに舞い上がっちゃうから、これを伝えたいと思うから。
―― 自分が知りたいことが知れて、しかもそれを人に伝えて。
信友 ほんとワクワクするっていう感じですね。どういうことを社会に訴えたいんですかとか聞かれるけど、社会にもの申すとか、あんまり。そういうのが苦手で。
―― だから信友監督の作り方が、社会に何か問題提起をしようという感じじゃなくて、例えば、一つのテーマでも違う面を見せて、その人を理解してもらうとか。
信友 っていうか、一緒に面白がれればいいなって。
―― そういうことですよね。だから、怒りとか負の感じが全然ない。そこがやっぱり見ていて目を背けるものが何もない。見入ってしまう感じ。引き込まれる。それが、言い方あれだけどドキュメンタリーなんだけど、ドラマみたいな。ドラマチックドキュメンタリーというか、ドラマ仕立てのドキュメンタリーな感じ。それもリアルな。これ実話だけど、脚本があるかのようなドラマチックですごいなと。
★信友直子監督ロングインタビュー(全5回)4/5に続く
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