自らの乳がんも母の認知症もありのままに撮る。ドキュメンタリー監督のサガとは 2/5
両親を自ら撮り続けたドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』~広島県呉市。泣きながら撮った1200日の記録~が大ヒットしている信友直子監督のロングインタビューの第2回目。
自身の乳がん体験をセルフドキュメントした作品『おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記』(フジテレビ『ザ・ノンフィクション』2009年)が話題となり、ニューヨークフェスティバル銀賞、ギャラクシー奨励賞など受賞し、高く評価された。その映像の中でも元気だった頃の母と娘(信友監督)の姿が残っている。
死への恐怖、女性としての絶望を抱く娘に、元来の明るさで励ます母。献身的な看病が大きなサポートとなり、回復。その数年後に、母は、アルツハイマー型認知症と診断される。
元気はつらつとしていた母の異変に少しずつ気付きながらも、カメラを回し続けていくドキュメンタリー監督の娘は何を思ったのか。
現実をありのままに撮るということとは。
―― そもそも、家族を映像で撮ろうというのは、どういうことだったんですか。
信友 将来何かにしようかと思ったかということですか? いや、いや。最初は2000年に、家庭用のビデオカメラを買ったんですよ、ボーナスで。それまでは高くて手が出せなくて。
―― いくらぐらい?
信友 今はもっと安いと思うけど、14~15万かな。その頃、私たちの業界的にも革命が起きて、1994年ぐらいから、それまではドキュメンタリーの取材といったら、カメラマンと音声とディレクターの3人で行っていて。ディレクターは、カメラマンの横で指示を出したり、インタビューする。それをカメラマンが撮って、音声が音を録るみたいな。だんだん小型カメラの性能が良くなってきたから、放送にも、家庭用のカメラでも画質や音が耐えられるようになってきて。カメラマンとやっていると、自分が思っていた画じゃない時もあるじゃないですか。
―― 見ている視点が違うかもしれない。
信友 そう、そう。あと、「カメラが来た」みたいに迫ってくると、取材される側が萎縮するんですよね。
―― 機材が大きいとね。仰々しくなるというか。
1994年ぐらい、
ドキュメンタリーを撮る上で、
業界的な革命が起きて
信友 そういう威圧感みたいなのがあると、やっぱり相手も緊張するし、それより小型カメラで、ディレクターが自分の思うような画を撮ったほうがいいんじゃないか、という革命が起きてきて。
―― 業界的にも、ハンディカメラで撮るのが。
信友 ディレクターが撮り始めたというのが増えてきて。
―― でも、散々お仕事でされていて、家に帰った時ぐらいは、もうカメラなしで生活したいわじゃなくて、またプライベートでも撮影しようと。
信友 そういうことじゃなくて、ハンディカメラが会社にあったんですが、ロケに出る度に、申請書を書いて、借りてというのが面倒くさいなと思ったの。自分が持っていると楽だなと。だからプライベートで買ったというよりも仕事のために使おうと思って。
―― それを家族でちょっと試し撮りじゃないけど、練習みたいな感じで。
信友 せっかく買ったんだから、プライベートでも撮ろうかって、そう、そう、撮り始めて。
―― 撮り出した時は、お母様、お父様、おいくつぐらいだったんですか。
信友 2001年の正月だから、「もうちょっとで72よね」とか言ったんだから、71歳と、父が9つ上だから80歳ぐらい。
―― もしかしたら、これが将来テレビに出るかも的な話はしなかったんですか。
信友 というか、私も思ってなかったし。とりあえず練習で(笑)。
―― でも、映像的に見てもご両親はすごくいいモデルというか、自然体だし、いい表情だし、言葉もいい感じで。
信友 いや、最初は父も母もめっちゃ、カメラを気にしてて。なんかすごい照れてた。だけど、だんだん慣れてきて。ただ、年に1回も実家に帰らなかったんですよ、その頃は。私も仕事が面白かったし、正月には帰るようにしてたんですけど、お正月の仕事とかもあるじゃないですか。例えば、柴又帝釈天のお正月みたいなのをやる時は、結局、お正月休みも仕事だから、そのまんまずるずる帰らないで、2年3年帰らない時もあったし。今考えると、かわいそうですけどね。お雑煮やおせちを2人だけで食べながら、「直子は何しているんだろうね」とか言っていたのかなと思ったら、かわいそうで。
―― 「帰って来い」とは言わないんですね。まあ、仕事で帰れないからねえ。
信友 「そう、しようがないね」という感じだった。
―― そういうご両親の映像を撮っていて、お母様に認知症の症状が出てきたんですね。
信友 そうです、そうです。その前に、書道展とか、母の元気なところとか撮っていたんですけど。私が乳がんになって、まずね。あの時はもう本当に、死に直面するのが怖かったから、なんかいつもやっていること(ドキュメンタリーを撮る)に逃げたという感じなんです。
―― ご自身の乳がん体験を映像に残すことで、現実と切り離すという感じで?
信友 現実逃避で。別にそれを何かにしようと思っていたわけではなく、でも、何かにしようと思っていたのもあるのかな。なんか半分ぐらい、やっぱり好奇心もあって、髪の毛が抜けるって、どんなふうになるんだろうとか。
―― そこは、やっぱりドキュメンタリーの仕事人ですよね。
信友 なんか、ディレクターの性(さが)ですよね、業というか。
これだけは言いたい。
自分が撮られる側になって、
気付いた今までのこと
―― でも、どうですか。今までは人を撮っていて、自分が撮られる側になって、カメラがあると律するの? それとも、感情がむき出しになるんですか。
信友 私はあんまり変わらなかったですね。私自身は、そんなに変わってない。
―― 例えば、泣くのを撮られていると思ったら、客観的になって、ちょっと抑えるとか。
信友 いや、そんな、あんまり気にならないのかな。でも、カメラがあるから、なんかサービスしようとは思った(笑)。
―― さすが、そこがね(笑)。
信友 自分が編集しやすいように、サービスしようとは思ったけど。
―― なるほど。ちょっと声を張って言ってみようとか。そういうことじゃないか(笑)。
信友 なんだろう、何したのかな、サービス。カメラに見やすい角度にしてみたりとか。
―― あと、気持ちを、その都度、表現しようとか。
信友 そう、そう。制作会社の後輩に撮ってもらったりとかしてたから。いろいろな心情吐露もしたし。普通は独り言を言わないじゃないですか。そういうのもちゃんと言ったりして。
―― 体を張ってそれをして。でも、乳がんの時にお母様が、相当助けてくださったというのも、今のこの映画でつながっていて。
信友 そうです。でも、その時のことで1個言いたいのは、ドキュメンタリー作品『おっぱいと東京タワー』というのを作った時に、結局乳がんの話だから、バストトップを出すかどうか、というのをめっちゃ悩んで。
―― 女性としては、ね。
信友 撮るのは撮ったけど、本当にこれをテレビで流して後悔しないだろうか、と。最後まで悩んだけど、結局出したんです。出すのを決めたのは、今までいろんな人に取材させてもらって、それこそ本当にここまで出していいのか、というところまで出してもらったこともあるから。翻って自分の番になった時に、「私は出しません」とは言えないなと思って。他の人に、あそこまで出してもらってきたのに。
―― なるほど。それは今までの人への感謝とか。
信友 贖罪みたいなこともあるし。
カメラに映った
思いもよらない自分の言葉に
はっとさせられて
―― 実際、自分が撮られる側になって初めて、「よくぞ、今まで出してくれたな」と。でもそれは信用してもらっていた、信頼されていたということですよね。そのお返しというか。
信友 そう、そう。取材される側としたら、やっぱりなんだろう。インタビューって、シンクロだと思うんです。その相手側との。相手がどう思っているかが、私が本当にフラットな状態で、飛び込んでいって、一緒になっての共同作業だと思うんです。取材される側も普段はそこまで考えてないんだけど、話しているうちに、自分はこんなことを考えていたのかって、何か揺さぶられるじゃないですか。で、何か深層心理から出てきた言葉とか。それが一番面白いと思うんです。多分、仕事をされているから、同じだと思うんですけど。
―― 絶対そうですよね。お話がすごく共感できるものがあります。自分が今まで撮る側から撮られる側になって、両方体験したじゃないですか。作品を作るほうでもあり、自分自身でもあるみたいな、制作者兼出演者みたいな。自分を見てどうでした? 自分という人間を、映し出された自分を見たら、違っていました? 印象が。
信友 そんなに「あれっ」って思うようなことはなかった気がするけれど。どうなんだろう。その『おっぱい~』の時ですよね。もう、あの時の自分、今は定着化しているから、その前にどう思っていたかは忘れているな。
―― 例えば、「私ってこんな人だったんだ」という意外なことがあったんですか。自分を「私って、こういう部分、こういう面もあるんだ」みたいな。
信友 『おっぱいと東京タワー』で、自分が言ったことで、すごいびっくりしたのは、最後に私、すごい幸せな気分になっているんですよね。その時に口をついて出たのは、別に何か良いことを言おうと思ったわけじゃなくて。乳がんになる前は、私、結婚してないから、結婚している人のことが羨ましかったり、私にはあれもない、これもないって、何か足りないものをすごく数えていて。仕事をしている仲間でも、私より楽しそうな仕事していたら羨ましかったりとか、人と比べて羨ましがったり、自分が足りないものを嘆いたり、自分の欲望にがんじがらめになっていたんですよ。
―― 自分の欲望に。
信友 だけど乳がんになって、生きているだけで幸せなことだし、こんなに看病してくれる母を持っているということが、いかに有り難いことかというのが、すごい分かって。で、「今はなんか幸せなんだよね」って、言っているんですよ。自分では覚えてなかったんだけど。「幸せのハードルが下がったのよね」みたいな話をしているんですよ。編集した時に、スタッフから、「これでしょう、テーマは」と言われて。私、こんなことを言っていたんだって。
―― お母様も信友監督がいない時に友達に「直子がずっとメソメソしててごめんなさいね。聞かされるあなたも嫌よね。ごめんね」みたいに話しているじゃないですか。ああいうのも、自分では絶対知り得ない情報じゃないですか。
信友 そう。何となく映像を見ていたら、夜中にあのシーンを発見して、号泣したんですよ。で、これ絶対、ほかの人にも見てもらいたいと思ったの。あのシーンがあったから、この作品は作りたい、と思った。
―― あれで、お母さんという人のキャラクターがすごくわかる。すごく人に気を使ったり、物事に対して明るく何とか前向きにしようとする感じだったり。それがあるから、今回の映画を見ると。
信友 「あの母が」って思うから。
―― そう。だから、ずっと見届けたいと思ってしまう。
母がアルツハイマー型認知症と診断されて、
ショックはショックだったのだけれど、
―― 話を戻すと、家族の記録として撮っていて、ふと、気付かれたんですか。お母さんが同じものを買ってきているな、みたいに。これ認知症じゃないの? と思って撮ったわけじゃなくて、本当に普通に撮っていて、気付いていったんですか。
信友 うん、うん。
―― で、本当に「あっ」となって、病院に行くじゃないですか。実際に認知症と分かって撮ったわけじゃなくて、映像に撮りながら現実に知ったわけじゃないですか。どうでしたか、最初、アルツハイマー型認知症と聞いて。
信友 頭の半分では、前に若年性認知症の取材をしたから。2005年ぐらいに。
―― じゃあ、もう知識はあるんですよね。
信友 知識はあったから、絶対そうだろう、と思っていたから。で、早く薬を飲んだほうが、進行が遅くなるから、早く飲ませたかったし、薬が出るから安心というのは半分あったんだけど、やっぱりショックはショックですよね。これからどうなるか、いろんな症状が分かっているから。
―― 病院に行くっていうのは、お母様は嫌がる感じだったんですか。
信友 母ですか。全然、嫌がらなかった。
―― でも、自分でもおかしいというのは、なんとなく分かっていたんですよね。
信友 私なんか、本当はもっと早くに気が付きすぎて、2012年に1回母を病院に連れていっているんですよ。その時はあまりにも早すぎたから、MRIでも萎縮があんまり見られなかったし、母も長谷川式っていう検査で、30点満点中29点とか頑張っちゃって。その時に母、29点取ったことをめっちゃ嬉しそうにいろんな人に言ったんです。多分、母もすごい不安だったから、検査に行きたかったんだと思うんです。大丈夫だっていうふうに言ってもらいたいから頑張ったし。もっと前、2010年ぐらいに、趣味の書道をやめているんです。母は「80歳を超えたから、神戸まで行くのは大変だから、やめるわ」って言ったんだけど。最近になって、当時の書の友達に聞いたら、「信友さんって、前は中心にいて、みんなとワイワイやっていたけど、最後の頃は端っこにいて、1人でぽつんと座っていることが増えて、なんか元気ないね、ってみんなで心配していたら、ある日やめた」って。多分自分がおかしいのは分かったんだと思う、その頃から。
―― そうか。人としゃべるとつじつまが合わないとか、人に気付かれるのが怖いし。
信友 そう、そう。今までみたいな字が書けないとか。例えば、電車の乗り換えが分かんなくなったりとか、あったのかなと思って。
―― あと、実際に外に出るのが面倒くさくなったりとか。呉から神戸というと、遠いから。
信友 そうですね。
―― 元々活発で何でもできただけに、わりと早めに「あれっ」ということがあったのかもしれない。でも、2001年から撮られていて、映像としては「あれっ」というのは、その2012~2013年ぐらいから?
信友 2012年は撮ってないんですよ、私。だから2013年からです。
―― 実際に認知症と診断をされてから、今度は撮影の意味合いが変わってくるじゃないですか。それはもう、記録だけじゃなくて、記憶というか、記念というか。
信友 母が診断されるところを撮ろうと思った時から、多分これは何かの形にしようと思い始めていた。「認知症です」と言われるところなんて、普通撮らないと思う。でも、父、母のプライドがあるから、2人が亡くなってからだなと思った。何かの形にするにしても。
―― 実際に病院の先生やご本人に、「病院に行くシーンを撮るよ」と言った時には、お母様とお医者さんはどういう感じで。
信友 父と母は、もうずっと撮っているから別に何とも。病院の先生には、その時は、「父は耳が遠いから、後からちゃんと診察の様子を見せたいので撮らせてください」と言った。
―― なるほど。そうですね。でも、実際に世に出るとは、まだその時、思ってなくて。
信友 私も、いつかは出したいなって、何となく思っていたけど。
―― で、結局、世に出ることになるじゃないですか。『Mr.サンデー』に放送されて。日曜日の夜って、みんな、あの時間だと結構見ているし、身につまされますよね。私も見ていたけど。あの時から印象に残っていたんですけど。ご本人たちは見ているんですか。お父さんとか。
信友 見てます。見てます。なんか普通に楽しんで見ていたみたいですよ。
―― 自分たちが出てる、みたいな感じ。もうテレビ慣れしているというか。
信友 私がカメラを回していることは、もう何も気にしてないから、2人とも。
何気なく撮っていた映像が
どんどん反響を呼んでいって
―― なるほどね。その辺は親だから。それでテレビの放送後に、すごい反響になったわけですよね。どういう感じだったんですか。
信友 『Mr.サンデー』の「番組にメッセージ」というのがあるんですけど、それにものすごい来たんですよ。いつもの10倍ぐらいは来た。
―― その反響は、どういう話が多かったんですか。
信友 「うちもそうなんです」とか、皆さん、本当に自分のこととして。
―― で、これは、撮り続けていこうみたいな感じになったんですか、確信が持てた。
信友 私も撮り続けようと思ったし、『Mr.サンデー』のプロデューサーも、「これはずっと撮り続けてほしい」と。いろんな人からも。
―― そこで初めて、見る人が待っているっていうのが確実に分かった時点で、撮り方って変わるんですか。今まで記録で「出るかもね」ぐらいの、最初は家族の話だったじゃないですか。これからはテーマが決まって、例えば、認知症とか老老介護ということが分かったら、ちょっと変わりました?
信友 「『Mr.サンデー』でやるよ」って言われてからは、全然、変わりましたね。本当にちゃんと、それこそ受けの画をちゃんと撮るとか、例えば、こういう話をしたら、その証拠物を撮るとか。もう本当にプロとして撮りました。
―― そうすると、もっと客観的に見られるんですか。
信友 そうですね。わりと父と母のことを、引きの目で見られたから、救われた部分があると思うんです。母がいろんなことを言い出しても、娘としては、ものすごく悲しい出来事だけど、ディレクターからすると、ものすごくいい映像が撮れているというふうになるので。なんか「やった」と思うし、やっぱりディレクターとしては。でも、そう思っちゃう自分、娘としてどうなんだろう、人間としてどうなんだろう、っていうこともあります。
―― それは、ディレクターの人ならではの、ディレクター魂なんですか。それとも仕事は仕事、自分は自分と切り離して。
信友 いや、切り離しはしませんでした、私は。親のことだし。
―― ご自身が病気の時もだし、親のこともだし。自然体で撮って、テレビに出て、反響が出て、今度映画となったら、編集して撮り直す。どういうところを付け加えたんですか。
信友 それはもうあれです。私のカメラでしか撮ってなかったから、実景が本当にヘナチョコだったんですよ。だから父と母の暮らす懐かしい呉というのを、ちゃんと描くような実景をと。それはすごく信頼しているカメラマンに撮ってもらった。
―― そうなんですね。瀬戸内海の感じだったり。ナレーションをどなたかに頼むのではなく、自分の声で、自分の言葉でというのは、ご自分のアイデアで?
信友 そうです。いや、それは、私もそうしたほうがいいかなと思ったけど、プロデューサーもみんな「そのほうがいい」って言ったから。
―― すごい良かったの、それが。
信友 ありがとうございます。
―― もう、カメラが自分の目線じゃないですか。だから「ただいま」って帰ると、まるで自分。なんか体験型みたいな。家事を手伝うのを「直子がやろうか」って声をかけたり、「もう起きんちゃい」と言う、それが、まるで自分がそこにいるかのような感じになる。これが例えば、ナレーターの人がいて、普通の感じだったら、ちょっと離れた感じになるでしょう。
信友:そうですね。
―― だからすごくリアルな感じが。だって、声もかわいいし、すごい良かった。
信友 ありがとうございます。
―― 映像とマッチしているというか。その声がけに対して反応しているじゃないですか。「ただいま」って言って、後でアフレコみたいに合わせたわけじゃないから。
信友 テレビの場合は、情報番組だし、他人の目というか、第三者に任せたほうがいいと思って素材を渡して編集をお任せしたんです。それが結果的に良かったし、それで評判が良かったし。でも、映画の場合は、セルフでつなぎたい。やっぱり編集も自分でやりたいなと思って。
―― ご自身で。選ぶカットもつなぎ方とかも違う。
信友 そう、だから、泣く泣くカットしたところをつないだりとか。
―― ご自身としては、ご自分の家族だったり、ナレーションだったり、わりと満足いっている? それとも、「もうちょっと、ここを」という感じですか。そういうことではない?
信友 こうすれば良かったと思ってたらしてます。誰かに、「ああしなさい」「こうしなさい」って言われたわけではないので。私が思うように、みんな、させてくれたから、それはすごい有り難かった。
見えざる何かの手によって、
すべてが導かれるように
作っていったという感じで
―― 自分が意図してないところから始まったものではあるけれども、こうやって途中からドラマが起きてきて、世に出ることになって、反響があって、そして映画化されて、その映画がどんどん広がっていくうちに、「こういうふうに人が見てくれたらいいな」とかはありました? 例えば「認知症のことを、もっと人が普通のこととして捉えてほしい」とか。例えば、「家族に対しても、つらくないのよって、分かってくれたらいいな」とか、そういう意図は?
信友 それは結構後付けですね、全部。「テーマはなんですか」って聞かれて、答える時には、そういうことを答えていると思うけど。
―― でも、それが逆に本当のドキュメンタリーですよね。撮っている間に、話が分かっていたわけではなく、意図して撮ろうと思ったわけじゃないですもんね。
信友 なんか導かれるように作ったっていう感じ。だから私も、自分の意思で、っていうよりも、見えざる何かの手によって、私があの時にカメラを買って撮り始めたのも、あの頃の画が残っているのも、以前の母が元気ですごい活躍している姿を撮っていたのも、私の乳がんのことも。すべてのことがなんか。
―― つながっていますね。
信友 『Mr.サンデー』で放送するきっかけになったのも、父と母を撮っていたテープと同じテープで、私が通っているスポーツクラブのインストラクターさんのレッスンを撮っていて。彼が辞めるというので、送別会の贈り物として、かっこよく編集しようとして。デジタイズ作業ができる『Mr.サンデー』のADにテープを渡したら「一緒に映っているこの老夫婦は誰ですか」と聞いてきて、「うちの両親なんだけど、実は母が認知症なんだよね」というのを初めて人に話した。そしたら「えー」みたいなことになって、で、私が知らないうちに、「信友さんが認知症のお母さんのことを撮っているらしいです」という話がプロデューサーに伝わって。「認知症です」とお医者さんに言われるところも映っていたから。「なんで先に言わないんですか! 隠してたんですか」ということになって(笑)。
―― 発掘されたような感じですね。たまたま。そのADさんもよく見つけましたね。
信友 ね。というか、あのインストラクターが辞めてなかったら多分この日はなかったとか。
―― そのADさんが見つけなかったら、とかね。やっぱり、報道番組を作るにあたって、「これは行ける」って思ったんでしょうね。それを見た時、これは伝えなければと。
信友 私がプロデューサーでも、多分そう思う。だって、ディレクターが自分の親の認知症を撮っていて、「認知症です」と診断されているシーンはなかなかないし。で、その人が元気な時もいっぱい撮れていて。認知症と分かってから撮ることはあるけど、その前の映像ってないから、それはやっぱり。「私だっていつかはやりたかったけど、今じゃなかったんだけどな」と思って。で、恐る恐る父と母に言いに行ったら、「ああ、いいよ、いいよ」って言うから(笑)。
―― その辺が、やっぱり親御さんは、もう分かっているんですね、信友監督の仕事をね。
信友 そうだと思う。何か協力してやろうと思ったんだろうし。
―― そうですね。だから今回は期せずしてそうなっているけど、でもやっぱりプロの人たちの力によって、こうなったなって思います。
信友 見る目があったんでしょうね。
★信友直子監督ロングインタビュー(全5回)3/5に続く
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