ベルリンの壁崩壊・冷戦終了から30年。6つの地図で東西ドイツの今も残る違いを見る
11月9日は、ベルリンの壁崩壊の記念日である。
1989年の出来事なので、今年は30週年である。パリでもあちこちでイベントが開かれている。
30年経った今、東西ドイツはどのように違うのか、『ル・モンド』にわかりやすい図表が掲載されていた。
大変面白いので、ここで6つの地図を紹介しながら、欧州に刻まれて残る共産主義の遺産を見ていきたいと思う。
1,宗教をもたない人の割合
旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)は無神論的な共産主義体制だった。30年経ったいまでも、この遺産は特徴となっている。
ドイツ中程に位置するテューリンゲン州は、宗教を持たない人の割合が最も高い。州都ワイマールで94.1%である。次に高いのは、ベルリンの西にあるブランデンブルク州の都市、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルで、88.1%である。
西ドイツとの違いは明らかだ。
ただし、西ドイツの人が今でも毎週末(か毎日)教会に通い、食事の前にはお祈りを捧げるような信心深い人たちかというと、違うだろう。彼らは私たち日本人と同じ西側という意味で、似ているはずである。
このような設問にどう答えるか。そういうところに、人々の意識と文化の差異が表れるのだと思う。
この「無神論」という人間を変えた文化・社会思想は、政治活動や人々の意識に大きな影響を与えている。
2,ラジカルな左派(極左)の割合
影響の一つは、政党に表れている。
ラジカルな左派政党、つまり極左の割合である。
このことは、2017年のドイツ連邦選挙における、左翼党(リンケ)の投票割合ではかられている。
左翼党とは、二つの党が合併して2007年に生まれた党である。
一つは、旧東ドイツの独裁政党だった「ドイツ社会主義統一党」の後継政党である「左翼党-民主社会党」である。
この中には今でも、少数の一派であるが、スターリン主義者やトロツキー主義者がいる。欧州大陸では別に珍しくもないが。
もう一つは、2005年に「ドイツ社会民主党」(現在第2政党・中道左派)から分離したWASP=「労働と社会正義・選挙のオルターナティブ」である。
ここでも旧東ドイツの遺産が強く見られる。2017年の連邦選挙では、東側ではこの極左政党が平均16%の得票率を超えていた。
日本では欧州の極右ばかり話していて、極左の動向を語ることがほとんどない。知らないものは見えないし、日本が右傾化しているから、そういう目で外を見るためだろう。
左翼党の主な主張は、緊張緩和のためにNATOをロシアも含めた集団安全機構にかえること。移民危機では排外主義に反対、そして民間と公的な医療制度の1本化などを訴えている。
「NATOを脱退してロシアと協力」とは言っていない。これは2党をどう統一するかで大きな議論となった「赤い停止線」(=超えてはならない一線:rote Haltelinien)に触れるのだ。他の左派政党との連携のためもある。プーチン大統領のファンなのではなく、ソ連にコントロールされた歴史と、より地理的にロシアに近いという、地域に刻まれた「集団の記憶」を見るべきなのだろう。
移民危機で、排外主義に反対したのは立派である。そういう政党が16%超えというのは、なかなかやるではないか。これができなかった欧州の左派政党は、看板を汚して存在理由が根底から疑われてしまった。
医療の問題は深刻だ。どこまで民間に任せるか、どこまで国の担当か。医療は、国にとっても個人にとっても、大きな経済的負担となるために、民主主義国家で「平等」のレベルが最も際立った形で顕在化する。フランスでも今問題になっている。
さて、欧州の観点から注意したいことがある。この政党は「極左」と呼んでいいものだが、欧州のラテン地域に誕生している極左とはだいぶ違うことだ。筆者はどうしてもフランスやイタリア、スペイン、ギリシャなどを見てしまうのだが、これらはむしろラテンアメリカの影響が流入している。
しかし旧東欧の極左はソ連の影響を強く残していて、かなり様相が異なる。
どちらも元は共産主義なのだが、発展の仕方が違うのだ。
とはいっても、2017年の選挙では、極右「ドイツのための選択」党が大幅に伸びて、東側で平均22%と左翼党を上回り、これまでの最高得票率になってしまった。
3,外国人の割合
それでは、東ドイツには移民が多いのか。
そんなことはない。外国人の割合が低いのも東ドイツの遺産と言える。
開放的とは言えなかった土壌や、移民は東側を通り過ぎて、豊かな西側に行ってしまうというのが理由だろう。
外国人率が低いのに、前述のように極右「ドイツのための選択」党が躍進したというのはどういう意味だろうか。
ドレスデンでは、11月頭に「ネオナチに対する非常事態宣言」すら、市議会で採択されたという。
でも地図を見ると、外国人なんて東側ではとても少ないではないか。「移民が嫌だから極右・ネオナチ」と一言で済ませる危険性がここにある。
移民流入に対する人々のショックというのは、数字だけでははかれない相対的なものだと理解する必要がありそうだ。
内陸部では、歴史的に「外国人」と言えば、言葉や民族は違っても白人であり、宗派は異なってもキリスト教徒だった(例外だったのはユダヤ人くらいだ)。
今やって来ているのは、肌の色も習慣も文化も異なり、民主主義度も違う、しかもイスラム教徒である。紀元前から「文明の衝突」を繰り返している地中海人とは異なり、彼らにとっては、地中海人なら(今どきは)一笑に付すような「少数」の流入にしか過ぎなくても、ショックは大きかったのだろうと思う。
それに、2015年の移民危機の前からネオナチも極右もいた。でも今のように大きめの勢力ではなかった。東西の経済格差だけが原因なら、以前からもっと大きな勢力だったはずだ。
社会は複雑にからみあっている。
極右と極左がともに力をもつ東ドイツーー極端思想の両者は何だか似てくるものだ。
でも、やはり違う。筆者は、東ドイツの人々は、どのような理由で極右を選んで極左を選ばないのか、逆に極左を選んで極右を選ばないのか、それを知りたい。フランスやラテン地域ならある程度わかるのだが・・・。
もっと昔の歴史をひもといて、この問いを考えるなら、このあたりの中には元々はざまの、微妙な地域を含んでいるというのはある。
共産主義の「人間の平等」「財産の国有化」という思想は、欧州では主に二つの層・社会に受け入れられた。
一つは、産業革命で工業化が進み、発展した地域。その中で、労働者は非人間的な扱いを受けており、共産主義を心棒した。
日本も同じで、「ああ野麦峠」や「女工哀史」、炭鉱労働者の話が伝えられているので、わかりやすいだろう。チャップリンの「モダン・タイムズ」という映画でも描かれている。
ただし、国そのものは工業化が進んで豊かで、遅れた外国を支配するような力をもっていた(日本もそうだ)。資本やブルジョワ層(ニューリッチ)が発達していたので、問題は富の分配だった。このような地域が冷戦時代に「西側」となる。
もう一つは、もっと東で、当時は工業が発達しなかった寒い地域。農業が国の主な産業であり、ついこの前まで農民は「農奴」の扱いを受けていたような遅れた社会。ロシアはこれに相当する。
問題は、その間、はざまの地域なのだ。
東欧と呼ばれる地域で、産業革命に関わったのはチェコくらいではないだろうか。
その他の地域は当時、ロシアのように社会は遅れてはいないが、ロシアほど国(主に軍隊)として強くない、といって産業革命が起こった西側ほど進んでいるわけではない・・・。
どうもこの「二つの間の、はざまの微妙な地域」という歴史と、極右・ネオナチの台頭には、関連性があるのではないかと筆者は思っている。極左も根強く、無神論者が多い地域なので、独特の政治風土が生まれている感じがするのだ。
(ネオナチの危険が高まるドレスデンに関して言えば、第2次大戦末に「ナチスへの報復・復讐」と言われる、連合国による徹底的な爆撃があった。都市が壊滅状態になるほどに。何か消化できない、地域に巣食う不信があるのかもしれない)。
4,若者の割合
西側の若者人口は多い。
これは移民の大量流入が背景にある。2016年に43年ぶり高水準を記録した。
2016年のドイツの出生数は、前年比7.0%の激増となった。このうちドイツ人女性の出生数は約3.0%増だったのに対し、非ドイツ人女性の出生数は25%も増加した。
2015~16年に移民の流入が急増したことで「伝統的に子どもを多く産む傾向の強い国々出身の女性の人数が増えた」と連邦統計局は指摘している。ドイツにはこの2年間にシリアやイラクといった中東の紛争地域から100万人以上が流入したとAFPは報じている。
一方で、ベルリンの壁崩壊で、旧東ドイツの人口動態は2つの大きな混乱に見舞われたという。
まず、若者が西に行ってしまったこと。30年で190万人にものぼる。
次に、2000年代半ばまで出生率が急落したこと。女性一人あたりの子供の数は、5年間で1.58から0.78に激減した。そして、その後ゆっくりと上昇した。
この影響は今日でも見られ、人口の平均年齢は西よりも東の方が高い。平均年齢は東では46ー48歳、西では40ー44歳だ。
今では東側の出生率は回復しており、東の5つの州の出生率は、西側の出生率を上回った(2017年の1.57に対して女性一人あたり1.61人になった)。
日本と同じ少子化で悩んでいたドイツだが、移民流入を機に両者の状況は激的に異なった。
5,失業率
失業問題を解決することは、統一の主要な目標の1つだった。
しかし、30年かかっても、東は西に追いついていない。
失業率は低下しているものの、2019年の東5州では依然として平均6.9%で、全国平均の3.1%の2倍だという。
それでも欧州の南の国々よりは相当マシだ。今フランスは8.5%と言って喜んでいる。10%になってしまうと「これはマズイ」という危機感が社会に募る(イタリアは9.9%、スペインは14.2%)。
一昔前に「バトル・ロワイアル」という日本映画があった。
この映画は冒頭で「新世紀の初め、ひとつの国が壊れた! 経済的危機により完全失業率15%! 失業者1,000万人を突破! 大人を頼れない世界に子供達は暴走し、学級崩壊や家庭崩壊が各地で発生!」と叫んで始まるとのこと。
この「失業率」のところで、フランスでは館内に笑いが漏れたという。「そうか、うちの国って壊れる寸前なんだ・・・」と。他の南の国々でも苦笑していたことだろう。
南の国々では、特に若者の失業率が深刻で、4人に1人(以上のことも多し)が常態となっている。
外から見ると、東西格差はあるものの、やはりドイツは豊かな国だと思う。
6,公共セクターのアパート住宅
東ドイツ時代、国家は私有財産のアパートというものを認めなかった。
統一に伴い、国の財産や会社を民営化する政策のために、Treuhandと呼ばれる機関が、かなりの住宅用不動産を売った。
しかし今でも、当時からの住宅が一部で維持されている。全住宅に対する公共住宅の割合は、東ドイツでは高い。
公共住宅が並ぶ景色は、一種独特だ。
東ドイツには、ソ連時代の風景が残っている。
フランスにもパリの郊外には、そういう地域が多い。公共住宅を増やすことには「ソビエト化」と呼ぶ表現がフランス語にあり、そういう地域では様々な物のデザインまでソ連っぽい感じになっている。
ただしフランスの場合は、所得の低い人のために建てられるのであり、住人は圧倒的に移民系が多い。建物の風景を見ると無機質な東側の風景に似ていて、人を見るとアフリカや中東の南から来ている人が多い。一体どこの国にいるのかわからなくなるような、そんな光景が広がる。
欧州に根を張った、一つの文化、一つのスタイルと言えるだろう。
ベルリンの壁崩壊の日と今
私はその日、記念すべき瞬間のテレビの生中継を覚えている。当時の私が冷戦というものがわかっていたとはとても思えないが、世界中が歴史の転換だと興奮している様子は記憶に焼き付いた。それが今、欧州研究者になることに繋がったのかもしれないと、漠然と思う。
あれから30年。ここまで欧州連合(EU)が発展し、さらにイギリスが脱退しようとしている現実を、誰も予測できなかった。
EUのおかげで欧州内に壁はなくなった。「二度と壁をつくりたくない」というヨーロッパ人の願いが、EUをつくったのだ。
つくづく思う、欧州もEUも、左派思想を理解しないと理解できないと。この地は、平等を求めて王政を倒したフランス革命から、革命が欧州大陸中に広がり、そこから共産主義という一つの枝が生まれた。今は更に新しい枝として、環境主義が生まれている地域なのだ。
イギリスは、欧州の一員としてこれらの影響を受けてはいるが、海が大陸と大きな隔てをつくっている。
ブレグジットは島の住民だから起こったのであり、壁の痛みを、大陸という地平線にある人間の平等への希求を、閉じたくても閉じられない大地を、イギリス人は結局はよくわからない幸せな人々なのかもしれないと思う。そう、だから日本人も似ていて、海に守られている幸せな人々なのだろうと思う。
日本人がEUを理解しにくいのは、大陸が理解しにくいこととリンクしているのだろう。そして、同じように島の住人であるイギリス人のEUに対する言い分を、そのまま輸入しすぎてしまったせいだと思う。
そして今、壁はEUの周りにできるかもしれないのが、現代である。
南アフリカのアパルトヘイトも同じで、「二度と壁をつくりたくない」というのは、人間の願いではなかったのか。人権のためではなかったのか。この大きな問いに、これから欧州の人々は、そして私達は、どう答えていくのだろうか。