連覇に挑む優勝請負コーチ
複数の球団を渡り歩き、行く先々でチームを優勝に導いた男達は優勝請負人と呼ばれる。古くは江夏、落合、工藤らがそう呼ばれ、現役なら稲葉、小笠原らが該当する。選手や監督に比べると注目されることが少ないコーチだが、昨季日本シリーズを戦った巨人と楽天には複数の球団で優勝の美酒を味わった優勝請負コーチがいる。
8度のリーグ優勝、5度の日本一
PL学園から新日本製鐵堺へと進んだ尾花は、強肩捕手を視察に訪れたスカウトの目に留まりドラフト4位でヤクルトに入団。1年目にプロ初勝利を挙げると2年目に4勝、3年目に8勝と順調に勝ち星を伸ばし、5年目の1982年からは4年連続で2桁勝利を挙げている。同時にリリーフとしても活躍しこの4年間のセーブ数は4、6、7、7。14年の現役生活の中でリリーフをこなさなかったのはわずか2年。ホールドの記録は残っていないが、通算成績は112勝29セーブ。また、1986年~1988年には3年連続最多敗戦投手にもなっている。先発もリリーフも、勝ちも負けも人より多く経験した尾花は投手コーチとして花を開かせる。
尾花投手コーチがチームに入るとチーム防御率は
ロッテ
4.50→3.27
ヤクルト
4.00→3.26
ダイエー
4.02→3.65
巨人
4.80→3.65
と全ての球団で目に見えて改善されており退団後は
ロッテ
3.68→3.84
ヤクルト
3.69→4.23
ダイエー
3.46→3.13
巨人
2.94→3.89
と悪化する傾向にある。
ダイエーでは斎藤、新垣、和田、杉内の強力な4本柱を形成し、巨人ではキレはあったが制球に難のあった山口、好不調の波が激しかった内海らを指導した。
その手腕を買われ、2010年、2011年には横浜ベイスターズの監督として指揮を執る。データを駆使するアナライジングベースボールで低迷するチームの再建に挑んだが、結果はいずれも12球団最低の防御率で順位も最下位。2013年からは再び巨人のユニフォームに袖を通し2軍投手総合コーチに就任。選手生活を超える投手コーチ歴で8度のリーグ優勝、5度の日本一を達成した指導力で今村、松本竜ら若手の成長を促す。
沢村賞輩出工場
楽天で投手コーチを務める佐藤は1976年、阪急ブレーブスからドラフト1位指名を受けプロの門を叩く。ルーキーイヤーの1977年に7勝を挙げる活躍で新人王に輝くと、その後も先発にリリーフにと活躍しチームに貢献。1985年には34度の先発機会で23完投。この年に最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得すると翌年には最優秀防御率を獲得。大きく縦に落ちるオリジナル変化球・ヨシボールの使い手でオールスターにも7回出場。1995年には所属していたオリックス・ブルーウェーブの本拠地が阪神淡路大震災の被害に見舞われたが「がんばろうKOBE」を合言葉にシーズンを戦い、8月には40歳11ヶ月でノーヒットノーランを達成。当時の最年長記録を樹立した。1998年に引退するまで21年の長きに渡って活躍した昭和最後の20勝投手だ。
阪急、オリックス一筋だった選手時代とは違い、オリックスで2年間投手コーチを務めた後は、阪神、日本ハム、楽天と3球団を渡り歩く。そして移ったチームでは3人の沢村賞投手を育て上げた。
上が佐藤コーチ移籍前年の成績、下が佐藤コーチ移籍年の成績
井川
9勝13敗 防御率2.67
14勝9敗 防御率2.49
田中
9勝7敗 防御率3.49
15勝6敗 防御率2.33
佐藤コーチが日本ハムに移籍した2005年に入団したのがダルビッシュ。プロ1年目は5勝5敗と貯金を作れなかったが、翌年からは6年連続2桁勝利。日本一のスーパーエースとして圧倒的な成績を残し海を渡った。
佐藤コーチの存在以外にも3人が好投した要因はあるだろうが、その手腕が評価されるのも頷ける。そんな佐藤コーチが現在取り組む課題は「田中の穴をどう埋めるか」。楽天にとって痛いのは24勝の星勘定よりも失点を35点に抑えた212イニング。ユーキリスの加入や銀次、枡田、岡島ら若手野手の成長による得点力アップと昨季ドラフト1位の松井、2年目を迎えるその前年のドラフト1位・森らでどこまでカバー出来るか。
尾花、佐藤両コーチ共に若手育成が重要な仕事。若手が順調に育っていれば交流戦や日本シリーズで今村×松井、松本竜×森の投げ合いが実現するかもしれない。