『北の国から』放送開始から35年、脚本家「倉本聰」の軌跡を振り返る
ドラマ『北の国から』(フジテレビ系)で知られる脚本家・倉本聰さん。その自伝エッセイ『見る前に跳んだ 私の履歴書』(日本経済新聞出版社)が出版されました。
81歳になった現在も、旺盛な創作活動を続けている倉本さんは、草創期からテレビに携わり、数々の名作ドラマを生み出してきました。この本では、幼少時代の思い出、疾風怒涛のドラマ黄金時代、富良野塾での奮闘、演劇という挑戦、そして自然と環境に対する思いまでを存分に語っています。
代表作である『北の国から』の放送開始から35年。あらためて、稀代の脚本家の歩みを振り返ってみたいと思います。
(以下、敬称略)
『北の国から』まで
1981年の秋に始まった『北の国から』で、倉本聰の名前は広く一般に知られることになる。だが、それ以前、すでに倉本は売れっ子脚本家として大活躍していた。
最初に挙げたいのは、『文五捕物絵図』(1967年、NHK)だ。松本清張の推理小説群を江戸時代に移し替え、岡っ引き・文五(杉良太郎)の活躍を描いていた。複数の脚本家による競作だったが、たとえば倉本が書いた中の1本である「張込み」は、野村芳太郎監督の映画に負けない面白さだった。
また、クローニンの『青春の生きかた』を原作に、『わが青春のとき』(70年、日本テレビ系)を手がける。医大の研究所を辞して風土病に取り組む青年医師(石坂浩二)をの物語だが、こちらも原作に忠実なドラマにはなっていない。原作をしっかりと頭の中に入れたら、あとは自分の世界で脚色していくのが倉本の方法だからだ。
このドラマでは原作の最初の部分だけを読み、残りは荒筋を人にしゃべってもらった上で、原作から離脱している。半ばオリジナル作品だが、原作より面白いドラマになるのだから仕方がない。
71年に日本テレビの「土曜グランド劇場」枠で放送された『2丁目3番地』は、石坂浩二と浅丘ルリ子という当時の人気役者の初共演が話題となった。美容院を経営する元気な妻(浅丘)。その尻に敷かれることを楽しんでいるような、売れないテレビディレクターの夫(石坂)。都会的な洒脱さとユーモアにあふれた1本で、ここでは向田邦子や佐々木守といった名手たちと競いながらメインライターを務めた。
倉本聰、北の国へ
そして3年後の74年、倉本はNHK大河ドラマ『勝海舟』という大仕事に挑むことになる。この大河ドラマを途中で降板し、札幌へと向かう予想外の展開とその経緯は、この本にある通りだ。
ただ特記しておきたいのは、倉本の行動の背後にあるのは、昔も今も、ひたすら「いいものを創ろう」という熱狂だということである。本当の意味でのプロ意識と言ってもいい。この時の「北へ向かう」という行為が、結果的には『北の国から』を生み、脚本家であると同時に劇作家、演出家でもある倉本聰を誕生させることになる。まさに人生はドラマだ。
札幌に逃避行した倉本を、フジテレビの制作者が探し出し、再びシナリオを書くことを促す。そして生まれたのが『6羽のかもめ』(74~75年)である。
このドラマの舞台は、内部分裂して、メンバーが6人だけになってしまった劇団「かもめ座」だ。彼らと、彼らを取り巻く人間模様を通じて、テレビ界の「内幕」を徹底的にえぐるという内容は、業界内で大いに話題となった。
実はこのドラマの最終回に、今やテレビ業界の伝説となった“名台詞”が置かれている。ちなみに、この回のサブタイトルは「さらばテレビジョン」だ。
放送時から見たら近未来だった1980年という設定の“劇中劇”で、国民の知的レベルを下げることを理由に(台詞では「これ以上の白痴化を防ぐために」)、政府は「テレビ禁止令」を出す。テレビ局は全て廃止。各家庭のテレビは没収され、アメリカの禁酒法時代の酒と同じ扱いになってしまう。
さらばテレビジョン
ドラマの終盤、山崎努演じる放送作家が、酒に酔った勢いでカメラに向かって自分の思いをぶつける。それは同時に、倉本自身の思いでもあった。
「テレビドラマは終わったンだ!!
テレビに於けるドラマの歴史は、くさされっ放しで終わったンだ。
いいじゃないかその通リ!!
(中略)
だがな一つだけ云っとくことがある。
あんた! テレビの仕事をしていたくせに
本気でテレビを愛さなかったあんた!
あんた! テレビを金儲けとしてしか考えなかったあんた!
あんた! よくすることを考えもせず
偉そうに批判ばかりしていたあんた!
あんた! それからあんた! あんた!
あんたたちにこれだけは云っとくぞ!
何年たっても
あんたたちはテレビを決してなつかしんではいけない。
あの頃はよかった、
今にして思えばあの頃テレビは面白かったなどと、
後になってそういうことだけは云うな。
お前らにそれを云う資格はない。
なつかしむ資格のあるものは、
あの頃懸命にあの状況の中で、
テレビを愛し、
闘ったことのある奴。
それから視聴者――愉しんでいた人たち」
これが1975年当時の倉本の叫びだ。そこには、「こんなふうになってはいけない」というテレビへの強烈な訴えがある。また、「俺に、さらばテレビジョンなどと言わせないでくれ」という、テレビに携わる人間たちへのメッセージでもあったのだ。
後年、倉本は記念すべき初エッセイ集を出版する際、その本に『さらば、テレビジョン』のタイトルをつけた。倉本が、ドラマの中のドラマという二重構造に仕込んで投げつけた時限爆弾は、放送から40年を経た現在もなお、そのカウントダウンを続けている。
北海道へと本格的に拠点を移した倉本は、次々と傑作を書いていく。『前略おふくろ様』(75~76年、日本テレビ系)、『うちのホンカン』シリーズ(75~81年、北海道放送)、 『幻の町』(76年、北海道放送)、『浮浪雲』(78年、テレビ朝日系) 『たとえば、愛』(79年、TBS系)などだ。
のちに20年もの長きにわたって放送され、北の大地を舞台にした大河ドラマともいうべき『北の国から』のスタートは、もうすぐそこまで迫っていた。