うるわしい(令)大和の国(和)の始まりの日は、平成最後の南岸低気圧による雨や曇り
令和の始まり
平成31年(2019年)4月30日に平成が終わり、翌5月1日より令和が始まりました。
平成最終日は、南岸低気圧により、ほぼ全国的に雨となり、翌令和初日まで続きました(図1)。
平成最後の日は、多くの地方では、平成との別れを嘆くかのような、惜別の雨になったのです。
東京では、低気圧に向かって暖かくて湿った空気が流入してきたため、平成最後の日の朝は冷えこまないものの、日中は温度が上がらず、肌寒く感じる日となりました。
令和最初の日も、雨や曇りの天気だったのですが、気温は高くなっています(図2)。
令和の初日の出を見ようと考えていた人は少なくなかったのですが、初日の出を見ることができたのは、日の出の頃に晴れていた新潟市周辺(写真)や小笠原諸島など、ごく一部の地域だけでした。
天気予報も、当然のことながら、令和発表に変わりました。
平成の時に発表した予報には平成の元号が付きますので、平成31年(2019年)4月30日に発表した48時間予報、つまり、5月2日の予報には「平成31年05月02日09時の予想」というように、「平成」が入ります(図3)。
気象庁では、平成に発表した気象・地震等に関する情報については、元号のみの修正は行わないことから、4月中に発表する5月1日以降を対象とする気象情報等の元号表記は平成としているからです。誤植ではありません。
新元号の始まり
平成31年(2019年)4月1日、政府は閣議で新元号を「令和」と定めましたが、改元の施行は、皇太子さまが天皇に即位する1か月後の5月1日にすることとしました。
最近では珍しい「踰(ゆ)月改元」です。
「平成」は、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、7日に閣議決定で改元が決まり、翌日から「平成」となっていますので、「翌日改元」です(図4)。
これに対し、「大正」と「昭和」は天皇が崩御された日に改元の詔勅がだされ、崩御された日が改元日でした(即日改元)。
しかし、その前は、改元が多くの人に伝わるのに時間がかかることから、1月1日まで遡っての改元が多かったのです。
明治元年9月8日(1868年10月23日)の行政官布告では、慶応4年を明治元年とする立年改元でした(表)。
また、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に東海地震が発生し、安政東海地震と呼ばれました。また、翌日の11月5日(12月24日)に南海地震が発生し、安政南海地震と呼ばれました。
嘉永年間に発生したのに安政が地震名に付いているのは、嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政と改元したからです。
黒船来航や地震などを理由にした安政への改元が、1月1日に遡った施行のため、嘉永7年そのものがなくなったからです。
令和の採用
令和は、最初の元号である「大化(645年から650年)」から、1300年余りの歴史の中で248番目の元号ですが、これまでの中国古典からの引用ではなく、初めて国書である「万葉集」から採用されました。
万葉集は、7世紀後半から8世紀後半に編纂された日本最古の和歌集で、天皇陛下など身分の高い人から一般庶民までの歌が4500以上も集められています。
政府によると、万葉集の梅の花の歌の序文、
「初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和らぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」
からの引用とのことです。
考案者である教育者で文学学者の中西進さんは、令和を、「大和うるわし」という意味もあるとしています。
自然災害が少ない令和へ
戊辰戦争の「慶応」、日清戦争と日露戦争の「明治」、第一次世界大戦の「大正」、太平洋戦争の「昭和」と大きな戦争が続きましたが、「平成」は久しぶりに戦争がなかった時代でした。
しかし、戦争がなかったものの自然災害が多かった時代ということもできます。
「平成」は、防災活動の進展によって、昭和期に頻繁に発生した、台風によって1000人以上がなくなるという甚大な被害はなくなりましたが、台風によって100人近い死者が発生することが少なからずありました。
また、東日本大震災という地震により約2万人がなくなるという巨大災害もありました。
加えて、活発な経済活動を背景に、災害による経済損失はどんどん増える傾向にあります。
「令和」は、戦争がない時代に加え、自然災害が少なくなった時代にして、元号の文字通り、日本は素晴らしい国と言えるようにしなければならないと思います。
写真の出典:ウェザーマップ・清水祥太気象予報士撮影・提供。
図1、図3の出典:気象庁ホームページ。
図2の出典:気象庁ホームページをもとに筆者作成。
表の出典:明治元年の行政官布告。