西武・武内夏暉が開幕3連勝。上には上がいて、開幕13連勝の高卒ルーキーはだれ? ②
1966年4月14日、初先発初勝利という上々の滑り出しをした堀内恒夫さんだが、まだジャイアンツ首脳陣の信頼を得るまではいかなかった。次回の登板はリリーフ。だが1安打1四球で、ワンアウトもとれずに降板し、即二軍落ちを命じられる。とにかく、ひどいノーコンなのだ。
「ブルペンでもストライクが入らんからね。本番になれば大丈夫という自信はあるんだけど、使うほうにしてみたらアテにできないでしょう。だから二軍もしょうがねえな、という感じだったね。カワテツ(川上哲治監督)さんはよくやるんだよね、見せしめみたいに若手を二軍に落とすのを。だけどこっちは、早く一軍に戻りたいから必死ですよ。なにしろ、待遇が全然違う。そもそも二軍だと朝6時起きで練習だから、こんなに苦しい思いはイヤだ、早く上がろうと。
で、コントロールをつけるためにちょっと力を加減して投げてみた。そうすると、10の力で投げても8の力で投げても、スピードは変わらないんだよ。それなら8の力で投げれば少しはコントロールもよくなるし、8の力のほうがかえってボールにスピンがかかっていい回転になるんだ。ピッチング自体は、高校のときと全然変わってないんだよ。まっすぐとカーブしかないんだもん。ただオレの場合、子どものころ右手の人差し指をケガしてね、人よりも短いんだ。それが逆によかったのか、カーブが独特の落ち方をするんだろうね」
5月28日、多少は制球がよくなった堀内さんは、一軍に合流。快進撃が始まるのはここからだ。30日の大洋戦、2度目の先発で3安打完封すると、6月6日のサンケイ戦、12日の広島戦、18日の大洋戦と4連続完封。しかも、リリーフでの登板2度をはさんでの離れ業だ。
ついたあだ名が「悪太郎」
投げるのがおもしろくてしようがなかった。大先輩・森昌彦捕手のサインにも平気で首を振り、試合後は試合後で「プロって大したことない」式のビッグマウスを披露する。マスコミはこれをおもしろおかしく報道し、堀内さんもまた、輪をかけて人を食った発言を繰り返す。いつしか“甲府の小天狗”“悪太郎”などという異名をさずかった。堀内ってルーキー、おもしろいぜ……スタンドはそんなファンで、いつもいっぱいになった。
「いいじゃん、なにをいったって。プロだから、グラウンドで結果を出せばいいんだろって感じですよ。生意気? 勝てばそう見えるのよ。とにかくまっすぐとカーブしかなくても、相手がカーブがくるとわかっていても、打たれる気はしなかった。プロの打者といっても、全然こわくはなかったね。だってウチにはONがいるんですよ。日本で一番いいバッター二人を従えて投げてるんだから、どのバッターもこわくない」
うなりを上げるまっすぐに、一度浮き上がってから落ちてくるようなカーブ。このたった2種類のボールで、海千山千、もうプロで何年もメシを食っている相手に、堀内さんが積み重ねた連続無失点イニング44。規定投球回に達して投手成績1位に躍り出たときの防御率は0.15というから、これはほとんど劇画のヒーローに近い。堀内が投げれば負けない——いつしかチームにそんなムードが芽生え、白星街道はオールスターをはさんで13まで延びた。
「13勝目が一番印象深いね。1回表の攻撃で王さんが2ランを打ってくれたのに、その裏すぐに3点を取られて逆転されたから。ぼつぼつ負けるのかなぁ、そんな気がしたね(もっともそのあとは、9回まで阪神打線をぴしゃりと抑えたが)。確かに、疲れてはいた。1年目は野球だけでおもしろかったから夜遊びもしなかったけど、18歳とはいえ中3日とか、中4日の場合はリリーフを1試合はさむとかだから、むちゃくちゃだよね。で、次の試合で広島に0対2で負けるんだけど、ウチが安仁屋(宗八)さんに9回二死までノーヒット。負けるとしたらこんな展開だろうな、という負け方だった。まあ、負けて気が楽になったよ。少なくとも、ひどい結果にはならないだろう……」
66年のペナントレースで残した堀内さんの記録は16勝2敗、防御率1・39は勝率とともに1位、最年少での沢村賞と新人王を獲得。ひどい結果どころか、驚異的とさえいえる数字だ。
「これからは、高卒ルーキーで2ケタ勝つのはなかなかむずかしいだろうね。少なくとも、開幕から13連勝はもう、ちょっと破られないでしょう」