豊臣秀吉の妻・淀殿に「悪女」のイメージがついたのは、「徳川史観」の影響だった
今も昔もドラマなどに「悪女」が登場するが、それは時代劇でも同じである。とりわけ豊臣秀吉の妻・淀殿には「悪女」のイメージがつきまとうが、それは「徳川史観」の影響だったので考えることにしよう。
淀殿(1569~1615)といえば、「悪女」のイメージが常にあり、時代劇でもそのように扱われることが多い。それは、政治に口出しし、我が子の豊臣秀頼を溺愛するなどの姿である。
淀殿の「悪女」のイメージが形成されたのは、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で徳川家と豊臣家が雌雄を決して以降のことであるといわれている。同時代の一次史料には、ことさら淀殿を悪しざまに描いたものがないのではなかろうか。
豊臣家滅亡後の江戸幕府の支配下において、形成されたのが「徳川史観」である。「徳川史観」とは、徳川家を特別な存在と位置付け、絶対化、正当化した歴史観のことである。そこでは豊臣家を悪、徳川家を正義とし、人々に広められた。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣後、『大坂物語』が刊行された。同書には徳川家に正当性があること、豊臣家の滅亡が必然だったことが説かれている。以下、内容を確認しておこう。
豊臣家が徳川家に戦いを挑んだのは、淀殿が大野治長ら重臣の言葉に耳を傾けず、徳川家康、秀忠(家康の子)の慈悲深い提案を無視したからだという。つまり、淀殿は政情を正しく認識することなく、誤った決断をしたということになろう。
しかも、淀殿は秀頼の教育を誤り、武将としての才覚を十分に引き出すことができなかった。秀頼は軟弱な武将であり、マザコンだったというイメージがついたのだ。それゆえ、大坂の陣を引き起こしたうえに敗北したのは、すべて淀殿と秀頼が悪いということになったのである。
おまけに、豊臣家が滅亡したのは、秀吉の悪政が原因であるとも説く。こうして淀殿には、すっかり「悪女」のイメージがつき、秀頼を溺愛した毒親とも認識されるようになった。
淀殿が「悪女」だったことは、「徳川史観」を広めることに活用され、時間の経過とともにエスカレートしていった。したがって、大坂の陣後に書かれた編纂物(二次史料)で淀殿を評価すべきではなく、同時代史料を用いることが重要である。