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武田家の養子に出された、織田信長の五男・信房とは何者か?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 現在でも、過去のことがよくわからない人物がいるだろう。あえて経歴や年齢を隠す人もいる。武田家の養子に出された、織田信長の五男・信房もそうした人物の1人であるが、どういう生涯を送ったのか考えてみよう。

 織田信房は信長の五男(四男という説もある)として生まれたが、生年と母の名は不明である。幼名は御坊丸。『甲陽軍鑑』には「勝長」の名で登場するが、たしかな史料では「信房」である。

 元亀3年(1572)8月、岩村城(岐阜県恵那市)主の遠山景任が亡くなった。景任の妻は、信長のおばの「おつや」である。景任には後継者たる男子がいなかったので、信房が養子として迎えられたという。

 同年11月、武田信玄が西上すると、配下の秋山虎繁が信濃から美濃に攻め込み、岩村城を降伏させることに成功した。「おつや」は虎繁を夫にすることで和睦し、信房を後継者に据えようとしたのである。

 翌年2月、「おつや」と虎繁の祝言が挙げられると、信房は武田氏の本拠がある甲府(山梨県甲府市)に人質として送られた。やがて、織田家と武田家は対立し、雌雄を決することになった。

 天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて、武田勝頼(信玄の子)は織田・徳川連合軍に大敗を喫した。同じ頃、織田信忠(信長の子)が岩村城を奪還し、「おつや」と虎繁を処刑した。

 天正8年(1580)、勝頼は佐竹義重を介して、信長との和睦を模索した(甲江和与)。翌年、信房は織田家に戻ることになり、天正10年(1582)3月に信長は武田家を滅亡に追い込んだのである。

 天正9年(1581)、信長が安土城で信房と対面し、犬山城(愛知県犬山市)主にすると伝えた。先述した信長の武田氏討伐が翌年になって敢行されると、信房は兄の信忠に従って甲斐に出陣したのである。

 天正10年(1582)6月、信房は信忠とともに上洛し、二条新御所に泊まっていた。その直後、本能寺の変が勃発し、信長は明智光秀によって死に追いやられた。光秀はそのまま二条新御所に攻め込み、応戦した信房は戦死したのである。

 信房は池田恒興の娘を妻とし、その間に勝良という子をもうけていた。変後、勝良は織田信雄(信長の次男)に仕え、以後は寺沢氏、前田氏と仕官先を変えたという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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