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平家を打倒した源義経は、美男子だったのか? それとも醜男だったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経。(提供:アフロ)

 現在は容姿をとやかくいうことは、歓迎されない時代である。かつて、平家を打倒した源義経は、美男子だったのか、それとも醜男だったのかが議論になったので、考えることにしよう。

 源義経(1159~1189)は、義朝の子として誕生した。頼朝の弟でもある。義経は頼朝よく支え、平家の討伐で大いに貢献した。しかし、義経は頼朝と仲違いし、奥州に逃亡したが、頼朝の意を受けた藤原泰衡に攻められ、自害したのである。

 ところで、義経と言えば、中尊寺(岩手県平泉町)に有名な肖像がある(トップのイラストのようなイメージ)。この絵を見る限り、義経は「普通のおじさん」のような感じで、とても美男子とはいえない。

 中尊寺に伝わる義経像は、江戸時代に描かれたものである。むろん、絵師が義経を目の前にして描いたものではないので、想像力をたくましくして描いた作品なのである。したがって、義経の容貌を確定する根拠資料にはならない。

 残念ながら、同時代において、義経を描いた作品は残っていない。鎌倉時代に成立した『平家物語』には、義経が色白で背が小さく、前歯が出ていた、と記している。しかし、これはあくまで文学作品なので、そのまま素直に受け取るわけにはいかないだろう。

 大山祇神社(愛媛県今治市)は、義経が奉納したと伝わる甲冑を所蔵している。この甲冑から義経の身長を推測すると、約147cmになるという。たしかに、当時の男子の身長は150~155cmといわれているが、義経がこの甲冑を用いていたという根拠はない。

 一方で、南北朝から室町時代に成立した『義経紀』には、義経が女性のような容貌だったと書かれており、楊貴妃や松浦佐用姫のような美女になぞらえられていた。むろん、『義経紀』は『平家物語』よりもさらに成立が遅いので、にわかに信が置けない。

 江戸時代になると、歌舞伎などの題材として、悲劇のヒーローである義経は大人気となった。そんな義経が醜男であってはならず、美男子として描かれるようになった。それが脈々として我々の時代に伝わり、義経が美男子だったとして定着したのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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