【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経は生き延びて、ジンギスカンになったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源義経が討たれたものの、その最期は省略された。実は義経は平泉で死なず、ジンギスカンになったというが、その点を詳しく掘り下げてみよう。
■源義経の最期
文治5年(1189)閏4月30日、源義経は藤原泰衡の軍勢の攻撃を受け、奥州平泉の衣川館(岩手県平泉町)で自害した。義経の死は『吾妻鏡』にも記載されており、確定した史実と考えられている。
とはいえ、かねて「義経は死んでいないのではないか」と疑問が持たれたのも事実である。義経の死が疑われた原因の一つとしては、同年閏4月30日に死んだ義経の首が鎌倉に到着したのは、約1ヵ月半後の同年6月13日だったからだ。
義経の首は美酒に漬けていたとはいえ、本人か別人か判別がついたのかという問題がある。要するに、別人の首を義経のものとして鎌倉に送り、義経自身は平泉から逃亡したというのである。
17世紀半ばから編纂が開始された水戸藩の『大日本史』には、義経が死んだというのは事実ではなく、逃亡したのではないかと書かれている。それは新井白石も同じで、義経の首は偽物ではないかと指摘する。
「義経が生きていた」という説の根幹には、「判官びいき」がある。「判官びいき」とは判官=義経への同情、愛惜の感情である。転じて、弱者や不遇なものに同情し、肩を持つことの意として用いられた。
つまり、「義経が生きていた」という説は、悲劇的な英雄だった義経に対する同情であり、「義経なら衣川館を脱出し、きっとどこかで生きているはず」という期待へとつながったのだろう。
■義経の北行伝説とジンギスカン説
古くからあったのは、「源義経北行伝説」である。義経は平泉から命からがら逃げ出し、蝦夷地(北海道)でアイヌの頭領になったという説がある。
それどころか、義経は蝦夷地からさらに金(女真族が支配した中国北部の国家)へと渡り、皇帝の章宗に歓迎されたという。義経の死後は、その子孫が大いに繁栄したといわれている。そして、義経の子孫は強大な勢力となり、清を建国したというのである。
この話にはニュースソースがあり、元ネタは沢田源内(17世紀に活躍した近江の人)が翻訳したという中国の史書『金史別本』である。源内は偽書、偽系図を多数作成したことで知られ、『金史別本』も偽書である。したがって、この話はまったくの虚偽である。
大正13年(1924)、牧師の小谷部全一郎が満州やモンゴルを調査した結果、義経がジンギスカンであることを突き止め、『成吉思汗ハ源義經也』(富山房)という本を出版した。この本は「判官びいき」の影響もあり、大衆の心に突き刺さり、大ベストセラーになった。
しかし、この本はアカデミズムに属する歴史学者から徹底的に批判され、学術的に成立しないことが明らかになった。現在、義経=ジンギスカン説を支持する研究者は皆無である。
■まとめ
義経が衣川館で自害したということは、確定した事実である。義経の死後、史料上で義経の動きを確認することはできないのが証左でもある。義経=ジンギスカン説は小説などのネタとしてはおもしろいが、学術的には成立しないことを改めて確認しておきたい。