「日本権益を攻撃した」イスラーム過激派団体の解散
とあるイスラーム過激派団体の「完全解散」
2019年11月20日付で、とあるイスラーム過激派団体が「完全に解散する」と称する声明を発表した。「完全に解散する」という言い回しは珍しいことで、通常はいろいろな口実を設けてよそに合流するとか、或いはシリアで見られたように実質的には「イスラーム国」や「シャーム解放機構(旧称:「ヌスラ戦線」。シリアにおけるアル=カーイダ)」に敗退した挙句解体・吸収されるとかのパターンを辿る。これだけでは読者諸賢には面白くもなんともないだろう。
しかし、この「完全に解散する」と発表したのが、2010年夏に日本企業が所有するタンカーを攻撃したと主張する声明を発表した、「アブドッラー・アッザーム部隊」というのならば、「テロ」や「イスラーム過激派」をちょっとでも真剣に観察する人々にとっては見逃すことができないはずである。これが、「解散」した後の行き先も決めることなしに消えてなくなるというのならば、それは先方の「ギョーカイ」の環境の何かを示すものとしてそこそこ真面目に取り合うべきものである。
アブドッラー・アッザーム部隊って何??
アブドッラー・アッザームとは、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻に対抗するアラブ・ムスリムのジハード戦士(ムジャーヒドゥーン)を世界中から集め、彼らをソ連軍との戦いに向かわせた、現代のイスラーム過激派の原点ともいうべき有名人である。それ故、同人の名前を冠したイスラーム過激派「テロ組織」は、その真贋を問わずそこらじゅうに現れた。今般取り上げるアブドッラー・アッザーム部隊は、2009年ごろからレバノンで活動していると称する団体で、当初は「イスラエルを砲撃しようとしたが砲弾やロケット弾の発射に失敗した」などというキュートな声明を書いてくれる作家さんのような存在だった。
それが(少なくとも日本にとっては)俄然重要な団体になりおおせたのは、2010年夏にホルムズ海峡付近で発生した日本企業が所有するタンカーに対して行われたとされる爆破事件の「犯行声明」を発表したからである。
事件の概要や、本当に爆破されたのか否かについては諸説あるのでここでは論じない。しかし、その後同派は2013年の駐レバノン・イラン大使館爆破事件の「犯行声明」を発表するなどして、レバノンやシリアでアル=カーイダの系列団体としての地位を確立していった。要するに、レバノンやシリアで活動していたアブドッラー・アッザーム部隊は、アル=カーイダの仲間としてそこそこ名声も実績もある団体だったということだ。ちょっと意地悪な見方をするならば、イスラエルや欧米諸国の権益を攻撃する「ふり」をしていただけのネット上の作家が、イランやシリアをたたくことでちょっとした有名団体に成り上がったことになる。
そんな有名団体が消えることの意義
しかしながら、近年のアブドッラー・アッザーム部隊の活動はなんだかさえないものだった。本来はレバノン、シリアとその周辺を包括する「シャーム」で活動していると称したものの、肝心シリアでの活動は「ヌスラ戦線」や「イスラーム国」、「シャーム自由人運動」のような、別のイスラーム過激派諸派が主役となった。レバノン情勢やシリア紛争関連では、ヒズブッラーやシーア派を罵る作品を発信したが、実際の戦果を伴うものは少なかった。実績が乏しい中、アブドッラー・アッザーム部隊は「イスラーム国」や「ヌスラ戦線」に迎合することもできなければ、「ヌスラ戦線」がアル=カーイダから「偽装」離脱した際に現れた「宗教擁護者機構(フッラース・ディーン)」に賛意を表明することもできなかった。仮に何か意思表示しても、相手にされなかった可能性も高い。
それでも、(ウソかもしれないけど)日本権益を攻撃し、イラン大使館を爆破した有名団体が、誰からも顧みられることなく消えてしまう意義は大きい。さしたる戦果もなく、視聴者から広報が相手にされなくなれば、どんな老舗の大店でも、イスラーム過激派は生きていけないのだ。現実の問題としては、「イスラーム国」もアル=カーイダも、「完全に解散する」と表明して消えてなくなるアブドッラー・アッザーム部隊の環境と大差のない状況にある。
イスラーム過激派対策の要諦とは、諸派の現場での軍事活動を抑えることと並んで、彼らの行動を日ごろからよく観察し、その広報の影響力を封じ込めることにある。アブドッラー・アッザーム部隊の「完全な解散」は、そうした対策の到達点の一つである。「イスラーム国」や「シャーム解放機構」、アル=カーイダなどの諸派についても、お小遣い稼ぎの売文家や、組織や予算を防衛するために世論誘導を試みる「いんてりじぇんすきかん」に負けずに、対策を徹底させることに努めたい。アブドッラー・アッザーム部隊の「完全な解散」は、「イスラーム過激派の専門家なんて必要ない」平和で健全な世界を目指す筆者の仕事の成功の証であり、そこは素直に喜びたい。