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豊臣秀吉の養子でもあった小早川秀秋は、そんなに愚かな人物だったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡山城。(写真:イメージマート)

 生まれながらに恵まれていても、愚かな人物は少なからず存在する。小早川秀秋は豊臣秀吉の養子でもあったが、愚かな人物と思われている。その辺りを考えることにしてみよう。

 天正10年(1582)、秀秋は木下家定の子として誕生し、のちに豊臣秀吉の養子になった。秀吉には子がなかったので、秀秋は後継者候補のひとりだったが、最終的に小早川隆景の養子となり、同家の家督を継承することになったのである。

 その間、秀秋は秀吉の命により、越前に移され、大幅な減封となった。それゆえ秀秋は、家臣を召し放つことになった。復権したのは、秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)のことである。

 その翌年に関ヶ原合戦が勃発し、秀秋は西軍に与して戦った。しかし、合戦の前日の9月14日、秀秋は徳川家康と和睦し、翌日の本戦では東軍の一員として西軍と戦い、東軍の勝利に貢献したのである。

 秀秋は家康に味方すると言いながら、合戦当日はなかなか西軍に攻め込まなかったという。そこで、業を煮やした家康は、配下の者に秀秋の陣に鉄砲を撃つよう命じた(問い鉄砲)。驚いた秀秋は、ただちに西軍の大谷吉継の陣に突撃したという。

 敗北を喫した吉継は、秀秋に恨みを抱きつつ自害して果てた。その後、亡くなった吉継は秀秋を祟ったので、秀秋は狂死したといわれている。しかし、問い鉄砲も狂死の件も、今となっては俗説として退けられている。

 慶長7年(1602)に秀秋は亡くなった。近衛信尹は秀秋について、少年時代は貧しい者に施しをし、芸能などで優れた才能を示したと評した。その一方で、秀秋は酒に溺れ、北政所(秀吉の正室)を悩ませたとも記している。

 秀秋の死因は、酒の飲み過ぎによるアルコール中毒だったとされている。そういうこともあったのか、秀秋は粗暴な振る舞いもあったという。また、秀秋は毛利輝元の養女を妻としていたが、別の女性との間に子が産まれたので、離縁したこともあった。

 秀秋の振る舞いを見ると、酒好きで乱暴な振る舞いがあり、女性にもだらしなかったようである。そこに関ヶ原合戦での裏切りもあって、後世に貶められたのではないだろうか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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