隆姫だけを愛し、父から叱責された藤原頼通。その事情とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長が子の頼通と妻の隆姫に子の誕生を期待する場面があった。頼通は隆姫だけを愛し続け、側室を迎えることを嫌がったようだが、その辺りについて考えてみよう。
頼通が道長と源倫子との間に誕生したのは、正暦3年(992)のことである。長男だったので、順調にいけば、道長の後継者となるのは既定路線だったといえよう。母の家柄も申し分がなかった。
頼通の正室は、具平親王の娘の隆姫である(母は為平親王の次女)。隆姫女王が誕生したのは長徳元年(995)だったので、頼通より3歳年下ということになる。2人が結ばれた経緯については、歴史物語の『栄花物語』に書かれている。
道長は、具平親王から娘の隆姫を頼通の妻にという申し入れがあったとき、大変喜んだという。道長は、男にとって妻の家柄が重要だと考えていたので、またとない縁談話だったのである。
頼通は隆姫女王を深く愛したが、残念ながら子には恵まれなかった。当時、妻の最大の責務は子を産むことであり、特に家を永続させるには、男子を産むことが重要だった。これは、2人にとって大きな悩みになった。
長和3年(1014)、三条天皇の眼病が悪化したので、政務に支障をきたすことになった。道長は三条天皇に対して、譲位を勧めたが、それは頑として受け入れられなかった。
三条天皇は道長との交渉の中で、頼通に娘の禔子内親王を降嫁させたいという意向を示した。しかし、隆姫を深く愛する頼通は、この話にまったく乗り気ではなった。そんな頼通に対して、道長は「男が妻一人とは・・・」と叱責したという。
この縁談話の影響もあったのか、頼通は病気になったという。加持祈禱などあらゆる手を尽くすと、頼通の病気の原因は、具平親王の怨霊だったという。こうした事情もあり、頼通の縁談は破談となり、のちに禔子内親王は頼通の弟の教通の妻となった。
とはいえ、頼通の妻は決して正室の隆姫だけでなく、藤原永頼の娘、源憲定の娘、祇子(藤原頼成の娘)を側室として迎えた。頼通の後継者となった師実の母は、祇子である。