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織田信長と袂を分かった足利義昭。挙兵後、自らが招いた最悪の結果とは!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 織田信長は足利義昭を推戴して上洛したが、のちに両者の関係は破綻した。信長が最初から室町幕府を滅ぼそうとしたという説は、否定する向きが多い。両者の方向性の違いが、不幸な結果を招いたというのが真相だろう。

 元亀4年(1573)2月、義昭が離反したとの一報を耳にした信長は大変驚き、信じなかったという。信長は義昭のもとに使者を送り、息子を人質とすることで和睦を申し入れたが、それは拒否された。信長は、大いに狼狽したことだろう。

 しかし、同年4月の時点で頼みとなる武田信玄は亡くなっており、義昭が信長に勝てる見込みがあったとは思えない。兵力差も歴然としていた。義昭は朝倉義景に期待したが、ついに上洛することはなかった。義昭の計算は、大いに狂ったといえよう。

 天正元年(1573)7月、義昭は槙島城(京都府宇治市)に籠城し、信長に戦いを挑んだ。信長は槙島城へ軍勢を派遣すると、自らも上洛した。同年7月12日、信長勢は義昭配下の三淵藤英が籠る二条御所(京都市)に攻め込むと、すぐさま藤英は降伏し、御所は破却されたのである。

 同年7月16日、信長勢の大軍は、義昭が籠る槙島城を攻囲した。翌7月17日、信長勢が槙島城を攻撃すると、義昭は翌日に降参したのである。こうして室町幕府は滅亡し、長きにわたる歴史を閉じたのである(のちに「鞆幕府」を設立したという説がある)。

 槙島城を退去した義昭は、顕如の仲介で三好義継の居城の若江城(大阪府東大阪市)に移った。信長が義昭を殺さなかった理由は、「天命恐ろしき」ということだった(『信長公記』)。将軍を殺した者は、碌な目に遭わなかったのである。

 義昭は信長から京都を追放されたが、室町幕府を再興するという執念は衰えなかった。義昭は放浪生活を余儀なくされたが、上杉謙信、毛利輝元、大坂本願寺などと協力し、諸大名に「打倒信長」を呼び掛け、室町幕府再興を悲願としたのである。

 義昭は信長に勝てると思い、兵を挙げたが、誤算が続いた。幸運だったのは、信長が義昭を殺さずに生かしたことだったが、このことが信長の悩みの種になったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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