本能寺の変後、明智光秀はいかなる最期を遂げたのだろうか?
6月といえば本能寺の変なので、明智光秀の最期を取り上げることにしよう。天正10年(1582)6月2日、光秀は織田信長を急襲し、自害に追い込んだ。しかし、6月13日の山崎の戦いで光秀は羽柴秀吉に敗れ、逃亡することになった。
光秀の最期は、一般的にどのように描かれているのだろうか。6月14日、光秀ら落武者の一行は、現在の伏見区小栗栖へと差し掛かると、ここで意外な結末が待っていた。
その頃、農民たちは落武者の所持品や首級を狙い、落武者狩りを行っていた。特に、首級を持参することは、恩賞を得ることができたので、光秀は格好の餌食だったのである。
案の定、光秀らは竹薮で落武者狩りに遭い、無残にも非業の死を遂げた。光秀らの首は、京都粟田口(京都市東山区・左京区の境)に晒され、衆人の面前で辱めを受けた。多くの見物人が集まったという。
次に、良質とされる史料によって、光秀の最期を確認しておこう。『公卿補任』は、6月14日に光秀が醍醐(京都市伏見区)の辺りに潜んでいるところを探し出されて斬首となり、本能寺(京都市中京区)で首を晒されたと記す。
『言経卿記』はもっと具体的で、光秀が醍醐の辺りに潜んでいると、郷人が討ち取って、首を本能寺に献上したと記録する。光秀の家臣・斎藤利三は堅田(滋賀県大津市)に潜んでいるところを探し出され、京都市中に乗り物で移動し、六条河原で斬られた。
なお、利三が車裂きにされたする説もあるが、それは誤りである。7月2日、光秀と利三の首は、残酷にも胴体と接続させて、粟田口で磔にされたという。そのほか3千余の首については、首塚を築いたと書かれている。
『兼見卿記』の記述も具体的である。光秀が一揆(土民)に討ち取られたのは醍醐で、京都所司代・村井貞勝の一門衆で家臣の村井清三が織田信孝のもとに首を持参した。
その後、光秀の首は本能寺に晒されたという。斎藤利三の件は『言経卿記』と同じで、堅田で捕らえたのは、近江の土豪・猪飼半左衛門だった。
光秀と利三の首が晒されたこと、首塚が築かれたことは『言経卿記』と同じで、奉行を務めたのは桑原次右衛門と村井清三だった。なお、光秀と利三の首塚は、粟田口の東の路次の北に築かれたと記している。
以上のとおり、一次史料の記述には一貫性があり、従うべきであろう。その後、坂本城も炎上し、光秀の一族や家臣も非業の死を遂げたのである。