「バリア」を壊す 日本バスケ強化のキーマン東野智弥の考え
日本のバスケットボールが面白い。発展途上だからこそ楽しい。国際競争力を見ると、日本の男子バスケは長らく低迷していた。まずアジアの競争が厳しく、一般的には成功の可能性が乏しい種目と思われていたに違いない。しかし近くから観察すると強化や運営に関わる人の熱、仕組みが一気に変わっていくスピード感には眼を見張る。
今回は男女、3×3、育成年代も含めた強化の前面に立つ東野智弥・技術委員長にインタビューをお願いした。彼は2016年秋からこの重責を担っている。日本バスケットボール協会(JBA)が進めている動き、特に国際化について深く語ってもらった。<以下敬称略>
特別指定で若手の登用を早く
日本の男子選手が抱えていた分かりやすい課題は「成熟の遅さ」だ。東野は課題意識をこう述べる。
「世界はスペインでもどこでも18歳でプロ。NBAも大学で1年プレーすればドラフトにエントリー可能です。日本は大学を卒業しても『新人だからもっとベースを』という感じで26歳、27歳でようやく熟練した選手になっていた。世界と何年違うのか、下手したら5年、6年違うぞ……と思ったんです」
2016年秋に発足したBリーグは特別指定選手制度を導入し、高校や大学とプロの二重登録を認めている。福岡第一高の河村勇輝は高校卒業を前に、B1の三遠ネオフェニックスで大活躍を見せている。他にも盛實海翔(専修大/サンロッカーズ渋谷)や、寺嶋良(東海大/京都ハンナリーズ)、中村浩陸(大東文化大/大阪エヴェッサ)ら、現役大学生がB1の主力としてプレータイムを得ている。
拓殖大を中途退部してプロ入りした岡田侑大(シーホース三河)も、特別指定の枠で登録されている。特別指定は「3月31日時点で22歳以下」の選手が対象で、有給、無給と関係なく通常の12人枠にプラスして2名以内を登録できる仕組み。二重登録以外も含めて、若手の起用を後押しする制度だ。
有望株をBリーグと海外へ
このような若手を優遇する仕組みは、世界中のプロリーグで導入されている。例えばアルゼンチンリーグは、19歳以下の選手を登録数の制限に関係なく起用できる。仮に数試合でもトップ経験は彼らの糧となるし、周囲の想像を上回る急な台頭を見せる場合も頻繁にある。
東野へのインタビューは河村がB1にデビューする直前に行われた。「河村はB1で通用すると思うか?」という筆者の問いに対して、東野はこう言い切っていた。
「間違いなくそのレベルにあると思います。その前も田臥勇太や佐古(賢一)、川村(卓也)はそうだった」
東野は続ける。
「今後は19歳以下を(登録制限に)カウントせず入れればいいと考えています。B1とB2を合わせると47都道府に36チームあります。だからその近くの大学に通うとか、通信で高校に行くとかしながらプロでプレーすればいい。大切なことは大学界の実情もよく理解した上で、どのように融合し競争力を高められるかです。トップの選手たちは海外に行きます。その次がこうやってBリーグに出ます。そうするとチャンスがどんどん出てくる」
「自分でバリアを張ってしまう」
終身雇用を前提とする実業団なら、入団は慎重に決めるべきだし、転職の伴う移籍が大きなリスクになる。しかし今のバスケ界はプロ化が完了し、キャリアパスも多彩だ。アメリカから日本に戻ってもチャンスはあるし、一つのクラブで挫折しても選手生活が終わるわけではない。挑戦を阻むものは過小な自信、躊躇だ。
馬場雄大は特別指定の制度を活かしてプロ入りし、Bリーグを経て19年秋からGリーグ(NBAの下部リーグ)に挑戦している。東野は言う。
「大学バスケを3年で辞めてBリーグで2年やって、MVPを取って、今はGリーグでプレータイムをゲットしている。センセーショナルだし、サプライズです。あの順応性はすごいし、渡邊や八村を見ても日本人の良さはそこにもあると(他の選手も)自信を持ってやればいい。日本人は自分でバリアを張ってしまうけれども、やったらやれる。突破口はそこじゃないかと思います」
バスケ界が海外挑戦に冷淡だった過去
選手の海外進出に対して、今のJBAは間違いなく前向きだ。しかし東野によると、渡邊雄太が渡米した2013年の時点では国内にそれを止めようとする動きがあったという。目先の強化を考えれば、代表レベルの人材は日本に残ったほうがいい。合宿、代表戦に招集しやすいからだ。
また田臥勇太はプレイヤーとしての最盛期で迎えた2006年の世界選手権で、日本代表に招集されていない。代表のアシスタントコーチを務めていた東野は振り返る。
「2006年のジェリコ・パブリセヴィッチヘッドコーチ(HC)は田臥を入れなかった。何故かというと合宿に来られないからです」
「空白を埋める選手が出てくる」
もちろんチームの熟成を重んじる見識にも一定の理はある。ただフリオ・ラマス日本代表HCは合流が直前になる「海外組」を積極的に起用している。ラマスHCはアルゼンチン代表でも、NBAプレイヤーをそうやって起用していた。
とはいえ予選とリーグ戦の重複がある以上、シーズン中は海外組の招集が難しい。東野はそこも後ろ向きには受け止めていない。
「アメリカに行って直前に帰国して、どう融合できるかを追求するのがプラスになる。さらにいえば(有力選手が帰国できず)空白はできるけれど、それを埋める選手が出てきてレベルアップする」
高校生をB1の舞台でプレーさせる。日本人がNBAやGリーグでプレーする。数年前までは皆が無謀と受け止めていた挑戦も、意外にやれている現実が我々の眼前にある。JBAはそれをさらに後押しする制度、カルチャーを創ろうとしている。
世界にベクトルを向け、スタンダードを示す
ジェリコHCは日本バスケをこう評していたという。
「規律は世界一だし、言ったことはできる。約束は守るし、そこはいいと言っていました。でも他を知らないから、やろうとしていることのレベルが低かった。日本は何しろ世界でなくアジアを目指していたんです」
東野は早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で学び、2011年に『男子アルゼンチンバスケットボールの強化・育成に関する研究』というテーマで修士論文を書いている。アルゼンチンは国民の平均身長が日本とあまり変わらず、44年に渡って世界大会から遠ざかっていた。しかし1984年にプロリーグを発足させ、同時に協会が育成年代からの強化プロセスを整備。2004年のアテネ五輪では金メダルに輝くなど、黄金時代に足を踏み入れた。
東野は説く。
「アルゼンチンは協会が土台になって施策を作り、リーグが先頭になって強化を図っています。チームも育成も世界に向けたベクトルをベースにして、この時期に何をしなければいけないかをはっきりさせている。スタンダードをはっきりさせながら、勝つためのことをやる。そこを我々はやっていなかった」
小中高とそれぞれが全体最適を無視して目先の勝利を追求するなら、「その世代でできないこと」は捨てたほうが効率的だ。一方で早い時期から世界を意識し、上のレベルで通用するスキルを体系的に習得しておけば成熟は早くなる。日本サッカーは1990年代からそれに取り組んで成果を出し、今は十代でヨーロッパに渡る人材も珍しくない。
在外日本人選手のフォローと発掘
海外組の活用に当たって、東野は留学と別のアプローチも採った。JBAは20人を超える「リスト」を持っている。プロはもちろん高校、大学で奨学金を得てプレーしている日本人選手の情報を管理し、フォローも行う。
八村、渡邊のような現代表はもちろんだが、例えばIMGアカデミーでプレーする田中力もリストに入っている。テーブス海(宇都宮ブレックス)は日本生まれだが、帰国するまではそこに名があった。
東野が力を入れているのは「埋もれた日本人」の調査だ。過去にも1995年に来日した高橋マイケル(元シーホース三河)のような例はあるが、近年は外国育ちの日本人選手が増えている。
日本の国籍法は1984年に、それまでの父系主義から父母両系血統主義に改まった。それ以前は「父親が外国籍/母親が日本国籍」の子供に出生時点で日本国籍が与えられていなかった。例えばテニスの大坂なおみは1997年生まれで、ハイチ出身の父を持ちアメリカで育った。もちろん生まれながらの日本国籍だ
東野は言う。
「実際まだ探し切れてない選手が存在していると思っています。年末に20人だったんだけれども2人増えて、テーブスが帰ってきて21人になり、また新しく入って22人に……と毎回更新されるんです」
必要な22歳までの判断
リストを見ながら彼はこう説明する。
「日本のパスポートを持っていても、名前に日本の要素が入っていない選手が沢山いますね。二つ名前を持っている選手もいます。どちらを選ぶかという、22歳の判断が必要です(※二重国籍状態の場合、遅くとも22歳までに選択しないと日本国籍を喪失する)」
つまり21歳までにそう言った人材へアプローチをしないと、代表入りは間に合わない。ニック・ファジーカス(川崎ブレイブサンダース)、ライアン・ロシター(宇都宮ブレックス)、ギャビン・エドワーズ(千葉ジェッツ)のように成人後に日本国籍を取得する選手もいる。一方で国際バスケットボール連盟(FIBA)は16歳以降に国籍を変えたいわゆる「帰化選手」の登録を1名と制限している。生まれた時点で既に日本国籍なら、そのような縛りはない。
ヨーロッパも含めたプロレベルへの到達は、アメリカ人にとって相当な高い壁だ。大半の選手は高校か大学でキャリアを終える。しかし日本の国籍がBリーグや日本代表で活きる。東野はこう説く。
「今まではそのまま高校、大学を卒業して、恐らくお腹が出て、たまにバスケをして遊ぶくらいが関の山だったわけです。でもそんな可能性があると高校から知っていれば、みんなプロを目指します。東京オリンピックがこれを促進させました」
家族、代理人などから集まる情報
もっとも人材発掘は容易でない。例えば渡邉飛勇は「ヒュー・ホグラント」の名でプレーしていた。ファーストネーム、ファミリーネームが洋風でも、ミドルネームが日本風というケースは多い。ただ大会のプログラムにフルネームは掲載されない。
渡邉や山之内勇登は、家族からメールでJBAへの売り込みがあったという。しかし電話番号の国番号、局番などで行き違いがあり、いずれもすぐ連絡を取れなかった。改めて別ルートから連絡があり、本人側とつながった。
外国籍のBリーグ選手を扱う代理人が、東野やJBAに情報を伝えるケースもある。クライアントが代表に選ばれれば価値が上がり、協会と代理人はウィンウィンだ。コー・フリッピン(千葉ジェッツ)はFIBA経由の紹介だった。FIBAにはNCAAの試合をチェックし、レポートするスタッフがいるそうだ。
地理的にも「日本人を探しやすい土地」がある。そんな土地柄から繋がりが生まれ、新しい情報も入ってくる。東野は言う。
「多いのはハワイで次がカリフォルニア。他にアリゾナ、ブラジル……とそんな感じで情報が来ます。ハワイの高校の先生は一杯知っています。例えばヒュー・ホグランド(渡邉飛勇)の友達に日本人がいるとか、そういう情報も入ってくる」
東野はJBAがアメリカに拠点を設置する腹案を持っている。日本人選手の調査に加え、本人やチームとの信頼関係を築くなら物理的に接近したほうが良い。
外国出身選手と融合できる日本の強み
バスケ界で「海外で育った日本人」「日系人」が果たしている役割は、野球やサッカーの歴史と重なる。日本のプロ野球は1930年代に発足したが、戦前戦後とアメリカ育ちが大活躍を見せた。史上2人目の200勝投手である若林忠志、中日の監督も務めた与那嶺要など多くの選手が日本野球のレベルアップに貢献した。サッカーもセルジオ越後、ネルソン吉村、与那城ジョージといった人材がブラジルから海を渡り「本場」のスキルやマインドを持ち込んでいる。
多様性への前向きな姿勢は、日本に限定された話でなく、いわば世界の潮流だ。東野の知人にジョン・パトリックという日本と縁の深い指導者がいる。トヨタ自動車のHCも務めた人物だが、現在はブンデスリーガのチームを率いている。息子がドイツのU-16代表でプレーしていて、12選手中11名はドイツ以外にルーツを持つ状況だという。
そんな有り様をネガティブに受け止める人もいるだろう。ただ少なくとも日本のアスリートたちには多様性を活かす心の器がある。ラグビーの日本代表がW杯で証明し八村や渡邊、馬場が今アメリカで表現していること――。それは外国出身者と上手く融合できる「日本」の強みだ。
東野もこう説く。
「我々には継続できる力、相手を思いやる力、共鳴して一緒になってやる良さがある」
今まで日本のバスケ界には子供と大人、日本と世界のバリアがあった。壁が選手たちの挑戦を阻み、可能性を狭めていた。今は視界を遮る壁が消え、志を持つ人々が進路を共有できる時代になっている。あとはただ、この道を力強く進むだけだ。