バスケ日本代表の立役者、ホーバスHCとホーキンソン 来日に関わった「会社員」が明かす秘話
日本スポーツの2023年を振り返ったとき、男子バスケットボール日本代表のパリ五輪出場権獲得は最大級のニュースだろう。トム・ホーバスヘッドコーチ(HC)率いる『アカツキジャパン』は、ワールドカップ(W杯)を3勝2敗で終え、アジア勢最高成績で五輪出場権を得た。
例えばサッカーやバレーボールならば五輪は「出て当たり前」の大会かもしれない。しかし男子バスケが五輪の出場権を自力で得るのは1976年のモントリオール大会以来48年ぶり。フィンランド戦、ベネズエラ戦の大逆転勝利といったドラマもあり、W杯はそれまでバスケットボールに興味がなかった人の目をこの競技に向けさせる好機にもなった。
ホーバスHCは2021年の東京五輪でも女子日本代表を銀メダルに導いている。彼こそはW杯における最大の立役者だろう。コート上の主役は渡邊雄太、河村勇輝……と何名かの名前が挙がる。ただサイズに劣る日本代表にあって相手のインサイドと互角以上に渡り合い、同時にホーバスHCの「日本風スタイル」に適応したジョシュ・ホーキンソンの果たした役割は間違いなく大きかった。
ホーバスHCとホーキンソンは、どちらもアメリカ出身。この国を「第二の故郷」に選び、代表の躍進に大きな貢献を果たした開拓者だ。しかし彼らが来日直後から成功、栄光を保証された存在だったかといえば違う。実は彼らの日本生活は決して恵まれたとは言えない環境からスタートしている。
実は二人の来日には同じ人物が関わっている。敏腕スカウトでも、エージェントでもない。自らを「普通のサラリーマン」と称する、バスケを愛するあるビジネスマンだ。今回は日本バスケの牽引者2人の来日とその後の奮闘から、成功の背景を紐解くストーリーをスポーツファンの皆様にお届けしたい。(以下敬称略)
「仕事もやる」条件で来日
ホーバスは1990年に「トヨタ自動車ペーサーズ」の選手として初来日を果たした。当時の日本リーグはプロでなかったものの、有力チームは1976年に松下電器へ加入したジェローム・フリーマンを皮切りにアメリカ人選手を獲得するようになっていた。ペーサーズを源流とするアルバルク東京は今やB1屈指のビッグクラブだが、当時は1部に昇格した直後。言葉を選ばずに言えば松下電器やNKK、住友金属といった強豪に比べて格下だった。
ただそんなペーサーズも1985年に加入したティム・アンドレーを皮切りに、外国人選手を獲得するようになっていた。もっとも、スカウトには実力以外の高いハードルが課せられていた。それは「フルタイムで社業に携わる」という条件だ。コーチを務めていた長谷川聖児はこう振り返る。
「大学を卒業していて、しっかり学業をできていたことが前提でした。『仕事をするよ』と伝えた途端に「行かない」という選手も多かったです。ただ、ちょうど日本企業が世界で台頭してきた時期なので『日本企業で仕事を学ぼう』という、意識の高い選手もいたんです」
1980年代後半から90年代初頭にかけて、日本企業は世界を驚かせる勢いを見せていた。ペーサーズ初の外国人選手であるアンドレーは引退後にトヨタの米国法人へ移り、現在はあの電通グループの取締役会議長を務めている。野心的で情報への感度が高く、「日本でビジネスのキャリアも積みつつ、バスケをプレーする」環境に対して前向きな選手が少数ながらいた。
アンドレーとの入れ替わりで、2000年に加入したのがホーバスだった。トライアウト(いわゆる選考会)を経ての入社で、ペンシルバニア州立大を卒業したのち、ポルトガルのクラブを経て23歳で来日している。
トライアウトに参加したのは長谷川コーチと、鈴木秀太監督、そしてマネージャーの坂口肇だった。
坂口は1979年の入社で、1980年代半ばにはハーバード大学のケネディスクール(行政大学院)への留学も経験している。バスケ経験者ではあるものの一般入社で、英語が堪能な国際派だった。坂口は不思議な縁から、その27年後にジョシュ・ホーキンソンの来日にも関わることになる。
坂口は「マネージャー募集」の社内ポスターを見てバスケ部にコンタクトを取り、社業が多忙な中でも外国人選手の通訳などでチームをサポートしていた。
ホーバスの先進的なプレースタイル
ホーバス獲得につながったトライアウトは、5対5のゲーム形式で選手の実力を確認する流れだった。彼らが欲しかった人材は何をおいてもまずビッグマン。当時の日本リーグは外国籍選手のオン・ザ・コート(同時起用)が「1名」だったため、インサイドプレイヤーの希少価値は今以上に高かった。
ただ長谷川の目にとまったのが長身痩躯のウイングプレイヤー(スモールフォワード/シューティングガード)だった。ホーバスは身長こそ203センチあるが細身で、コンタクトプレーも強いタイプではなかった。長谷川はそれでもホーバスにこだわった。
「何が違っていたかというと、必ずボールに絡んでいました。リバウンドも、パスも、得点も」
坂口は振り返る。
「体重は90キロくらいだから『こんなに細くて大丈夫かな』と思いました。でも素人の僕が見ても速いし、シュートが上手くて柔らかかった」
当時は日本リーグに限らずインサイドの高さ、パワーを強調するスタイルが主流だった。スピードに恵まれ、なおかつ卓越したシュート力を持つホーバスは当時としては異色で、30年後の現代バスケに適したオールラウンダーだった。長谷川には同じリーグの強豪と同じ土俵で戦うことが得策ではないという読みもあった。
ホーバスはチームに馴染み、日本リーグでは4年連続で得点王の大活躍を見せる。彼の活躍を見た他チームがそれまでのビッグマン志向を改め、こぞってオールラウンダーを獲得し始めるほどのインパクトだったという。
NBA挑戦、アメリカでの就職活動といった経緯はあったが、日本人女性と結婚し、日本バスケと長く関わって今に至っている。選手、メディアとも通訳なしで対話できる日本語力も身につけている。
今と変わらない勝負への貪欲さ
長谷川は「ホーバス選手」のプレーとキャラクターをこう振り返る。
「ディープ3(ラインからさらに遠い位置から打つ3ポイントシュート/現代バスケでは一般的だが当時は珍しかった)を、当時の彼はもう打っていました。あと良かったのはリバウンドに絡んでくれる、アウトサイドにいてもゴール下に飛び込めるところです。『日本で頑張る気持ち』を練習中だけでなく、練習から離れたときも感じました。日本人選手に対しても『こうやろう』といった提案をしていましたね」
勝利を貪欲に求める姿勢も、今と同じだった。
「長谷川誠(※当時の日本バスケを代表する名ガード)がゼクセルにいてウチとやったときに、日本人選手がなかなか上手く(守備に)つけなかったんです。そのときトムが『セイジ、俺がついてもいいか?』と自分から言ってきたことを今でもよく覚えていますよ」(長谷川)
途中から契約形態は変わったそうだが、来日直後のホーバスは社業にも従事していた。体育館への移動時間を勤務として認める配慮でオフィスワークは「8時45分〜16時」とやや短縮されていたが、それでも調布の社員寮から飯田橋のオフィスまで通勤電車で通っていた。当時は冷房のない車両も多く、長身の外国人選手は夏場になるとくるくる回る扇風機に当たらぬように身体をくねらせていたという。
坂口は家族で寮に住み、外国人選手と通勤・退勤をともにしていた。彼はトヨタの海外渉外部に属し、ホーバスは隣の部署(海外宣伝課)で働いていた。ホーバスは海外のトヨタグループ会社向けの広報誌『トヨタファミリー』を制作する仕事に関わっていた。社業の貢献度も高く、職場でも同僚から慕われる存在だったという。
坂口はFE名古屋の初代社長に
坂口は1991年からアメリカへ転勤になり、バスケ部を離れた。しかしその25年後に、ひょんな経緯から再びチームの運営へ関わることになる。まず2012年、彼はトヨタ自動車から豊田通商に転籍していた。両社は人事的なつながりも深く、さらに豊田通商にもバスケットボール部があった。ファイティングイーグルス名古屋(FE名古屋)の前身となるチームだ。
「たまに試合を見に行っていたのですが『部長になってくれ』と言われたんです。僕はバスケが大好きですから『いいですよ』と返事をしました。そのときはプロ化するなんて思ってもいません。試合に行って応援して、あとは予算の獲得を頑張ればいいと考えていました」(坂口)
裏で糸を引いたのは長谷川だった。
「私の明治大の先輩と同期が(豊田通商の)バスケ部の面倒を見ていたんです。坂口さんが異動されたときに連絡があって『坂口さんはどういう人?』と聞かれて、僕は『最高の人だと思いますよ』と答えました。自分ができることはすべてやってくれる、判断が早い人ですから」
とはいえ実業団チームの部長のままなら、そこまでの責任はなかった。しかし坂口が部長になってまもなく、日本バスケは激動の時代を迎える。国際バスケットボール連盟(FIBA)の介入もあり、2015年1月からはトップリーグの合流と完全プロ化に向けた動きがスタートした。
当時の豊田通商はNBDL(NBLの2部リーグ)で、日本人選手は原則「朝から夕方まで働く正社員」だった。無理にプロ化を目指さずB3、地域リーグなどで実業団として存続させる方向性もあったはずだ。しかし坂口の尽力もあってチームはプロ化し、B2でBリーグ初年度を迎えることになった。
坂口は豊田通商の役員を務めながら、チームの社長を兼務した。試合の運営、スポンサー営業などで駆け回ることになった。
「まず社団法人の代表理事になって、途中で株式会社にしました。社員4人くらいでやっていましたから、もう大変な思いでした」(坂口)
「新卒」の来日に危惧も
チームは2016-17シーズンのB2初年度を中地区2位で終えた。翌シーズンの補強を図る中で、渡邊竜二HCらがアメリカで行われた「ショーケース(合同テスト)」に参加して外国籍選手を調査した。エージェントが主催してBリーグに興味のある選手を集め、日本からは10クラブ近くが参加し、品定めをする場だった。
そんなショーケースに参加していたプロ未経験の若者が、ワシントン州立大のジョシュ・ホーキンソンだった。彼にオファーを出したクラブは結果的にFE名古屋だけだったが、渡邊HCは高い評価を社長の坂口に伝えてきたという。しかし坂口が諸手を挙げて獲得に賛成したわけではなかった。
「新卒で大丈夫?と思いました。ティム(・アンドレー)もトム(・ホーバス)も一回、海外生活をしていたから、どういう問題が起こるとか、日本の環境が(相対的に)いいということも分かってくれていました。でもジョシュ(・ホーキンソン)は海外生活が初めてだと言うものですから」
坂口の危惧は当たらずとも遠からずだった。ホーキンソンは来日直後に一時ホームシック状態になり、苦しい時期を乗り越えて日本に適応していった。坂口は振り返る。
「普通はチームメイトが面倒を見てくれますけど、ウチ(FE名古屋)は当時、日本人選手と外国籍選手が住んでいるところが離れており、練習以外で彼に付き合ってやれる人がほとんどいなかったんです。ただトレーナーの平岩(丈彦)さんがプライベートでずいぶん面倒見てくれました」
当初は外国籍選手の二番手だったホーキンソンは、まもなくチームのエース格となる。そして2020-21シーズンから信州ブレイブウォリアーズに移籍した。FE名古屋はその後B1へ昇格するが、当時はアリーナ建設のメドが立たず、B1ライセンスを取得できていなかった。ホーキンソンはB2の枠には収まらないレベルまで成長していた。
信州は完全なプロチームで、練習時間も伸びたはずだ。勝久マイケルHCの徹底した指導もあり、ホーキンソンはプレイヤーとしての幅を広げていった。
「正直に言って、あんなに器用な選手になるとは思わなかったです。来日した直後はもう少し華奢でしたけど、身体も年々大きくなっていますね。今はボールプッシュができるし、3ポイントを打てるし、インサイドのディフェンスもできる。でも来日直後は3ポイントを打つくらいで、あんなに色々なことはできなかったです。信州でもずいぶん伸びました」(坂口)
「トムとジョシュ」は似た者同士
坂口によると二人には明確な類似点があるという。
「ジョシュはトムと同じように、決めた目標に対してすごく貪欲ですね。(ホーキンソンは)コロナのときも他の選手はすぐ帰ったけど、日本国籍を取るという目標があったからずっと日本にいました。そして一生懸命、日本語を勉強していました。その意志の強さはすごかったです」
二人は揃ってタフなハードワーカーだ。
「ジョシュもトムもケガに強いですよね。普通は(主力選手の)プレータイムが25分くらいですけど、ジョシュは身体が冷えるから(ベンチで)休むのは嫌だと言うんです。あれだけプレーしていたのに、FE名古屋に3年間いてケガで欠場したゲームは5、6試合でした(注:2018-19シーズンに5試合欠場したのみ)」
坂口によるとホーバスは物言いがストレートで、ホーキンソンはやや遠慮がちという違いがあるという。ただコミュニケーション力は二人が日本バスケ、日本社会に馴染むポイントだった。
「相手が日本人で、言葉が十分に通じなくても、常に周りとコミュニケーションしようという姿勢が二人にはありました」
日本バスケは実力、人気とも過去最高レベルに到達している。今ほど光の当たらない、環境も恵まれない時代から努力を続けてきた人材がいたからこそ、2023年の成功はあった。忘れてはならないのが世界とのレベル差が今より大きかった時代に海を渡り、日本を引き上げてくれた人材だ。今シーズン限りの引退を決めたニック・ファジーカス(川崎ブレイブサンダース)もそんな一人だろう。1980年代の実業団バスケに飛び込んだティム・アンドレーのような冒険者たちも、歴史の立役者に違いない。
トム・ホーバスとジョシュ・ホーキンソンも、間違いなくこの国の代表チームを引き上げた功労者だ。もちろん彼ら「だけ」の成功ではなく、坂口や長谷川のような仲間との縁や、時代の巡り合わせもあっただろう。日本バスケの躍進、W杯での成功を喜ぶとともに、今こそそんな『日本バスケの開拓者』に感謝したい。