藤原道隆の死因は糖尿病。井浦新の名演、同じ平安時代人・崇徳院の最期との共通点が「光る君へ」第17回
〜藤原道長の兄弟たち〜
忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな
大河ドラマ「光る君へ」第17回「うつろい」(脚本:大石静 演出:佐々木善春)では栄華を極めた道隆(井浦新)が逝った。
次第に健康状態が悪くなっていく道隆が、しきりにのどが渇いたと水を飲む描写や手足がしびれ、視力も落ちていく描写もあったことから、飲水の病(糖尿病)だったようだ。
藤原道長の死因も糖尿病説が濃厚で、貴族には多い病気だったのだろう。当時の食生活は、干物、ご飯、塩が主で、酒はどぶろくだったから糖尿病になりやすかったとか。
とにかく道隆が大酒飲みであったことは確かなのだ。
(*以下ネタバレあります。ドラマをご覧になったあとでお楽しみください)
自分の健康も、民の健康にも気を配らなかった残念な道隆ながら、死の間際、最愛の妻・貴子(板谷由香)との出会いを思い出し、その頃、彼女の詠んだ和歌を諳んじる。
「あの歌で貴子と決めた」と言うほどの名歌は「新古今集」に収められており、“忘れないという言葉がいつまでも変わらないのは難しいだろうから、その言葉を聞いた今日限り、命が尽きてしまえばいい。”という情熱的な恋の歌。
「仲関白通ひそめ侍りけるころ」の詞書から、道隆と貴子の関係ができて間もない頃の歌とされているそうだ。
歌の力で愛する人の心を射止めた。これは、道隆の父・兼家(段田安則)と妾・寧子(財前直見)との関わりとも似ている。
寧子は兼家の最期を看取ることはできなかったものの、死が迫っている兼家に「あの歌は良かった」と「蜻蛉日記」に書いた自分の和歌を褒められた。
夜、兼家が帰ってしまったことを嘆きながらひとりで寝る私にとって、夜明けまでの時間がどれほど長いものかご存知か、と妾の身の辛さを謳ったもので、それだけ兼家を愛しているという気持ちの現れ。
夫の気持ち繋ぎ止めておくことの難しさ、苦しさを託した歌を気に入る男たちの心情はいかに。
女性が自分を想う情熱的な歌を、フフフと喜んでいるとはなんだか身勝手な感じがするのだが、歌の巧さーー知性や教養を認めてもらうことも女性には誇りなのかもしれない。
「出会ったときの話をしながら死んでいく夫婦っていいよねえ」
父子そろって別れ際、自分の辞世の歌を詠むでなく、妻が自分を詠った歌を褒める。それを女は喜び、ふたりの思い出に浸る。この情景の繰り返しは、NHK公式サイトの「君かたり」で井浦新が「父上が教科書」と語っていることをみると、父の生き方をなぞってきたから、やってることは同じになるということかとも推察できる。が、ほかにふと思ったことがある。
権力を手にして横暴に振る舞い、周囲の評判を貶したにもかかわらず、最後は悪いものが流れていくようにきれいに死んでいく。それが人間なのではないか、ということだ。
財産も野心もあの世には持って行くことはできない。兼家、道隆父子と妻との別れは、その表現ではないだろうか。
あるいは、汚れてしまった彼らをせめて生まれたときの無垢さに浄めたいという作者の思いやりであろうか。
貴子役の板谷由香は、先述の「君かたり」でふたりの別れのシーンを「なんてロマンチックなんだろう」と語っている。井浦と「出会ったときの話をしながら死んでいく夫婦っていいよねえ」と語り合ったとか。
そこに至るまでの井浦新の芝居に求心力があった。
だんだんと体の自由が効かなくなって醜態をさらしていくなかで、息子の伊周(三浦翔平)に関白のあとを継がせたいと、一条天皇(塩野瑛久)に必死に頼み込む。
個の尊厳よりも、家を守ることが第一で、家に固執したがために壊れていく人間の生を、井浦新はひたむきに演じている。
目がかすむなか、確執のあった道兼(玉置玲央)の手を必死に握る様なども、理屈を超えた情感が充満し、良いも悪いもなく見える。
ただただ懸命に生き、そして何もかも終わりかけたとき、道隆は貴子と愛を語りあい、最後、しずかにゆっくりと庭に顔を傾けるのだ。そこには菜の花(?)が咲き、陽光が降り注いでいた。
この場面を見て思い出したのは、大河ドラマ「平清盛」第30回、井浦が演じた崇徳院が悪霊のようになって死んでいく回である。凄まじい形相となった崇徳院とは全然違うだろう、と思うだろう。でも最後の最後をオンデマンドで見返してほしい。
「光る君へ」のチーフ演出の中村由貴ディレクターが演出した第30回。保元の乱で敗北し、讃岐に流刑となった後、朝廷の仕打ちに嘆き、怨霊と化す。
怨霊の形相が一生忘れられないようなインパクトなのだが、「なにひとつ思うままにいかない一生を生ききった」崇徳院がさんざん呪詛して住まいも肉体もボロボロになった最後に心が掴まれるのだ。彼は薄暗い住まいから這いずって、庭のほうに移動する。外には光が差している。
崇徳院も道隆と同じく、最後は光を見ているのだ。
これぞ成仏ではないか。すべてをやり尽くしゼロになること。
井浦新は「成仏」という概念すら体言している。こんな俳優、なかなかいない。
井浦新の道隆の死で、予定の文字数がほぼ尽きてしまった。
こんな場面も↓
こんな場面も↓ 印象的だったし、
定子(高畑充希)が強くなっていることなど、語りたいことは盛りだくさん。
道長に助けてもらったまひろ
宮中の政のエピソードが濃密過ぎて、主人公のまひろ(吉高由里子)が道長(柄本佑)に看病され疫病から奇跡的に回復したという素敵なエピソードについて書くのが後回しになってしまった。
道長が助けてくれたことを知ったときまひろはかすかに、ニッ。という満足げ表情を浮かべる。寧子(財前直見)と同じく、実は私が愛されているという自信のようなものが生きる糧になるのだ。
寧子が孤独を日記で紛らわせたことを聞いて(第16回)からの、第17回ではさわ(野村麻純)が手紙を読んで心を動かしたことを知って、まひろは「なにを書きたいのかわからない。けれど筆をとらずにはいられない」とじょじょに書くことに前のめりになっていく。
宮中の動きと比べるとまひろの歩みがかなりゆっくりなので、やや地味に見えてしまうのだが、繰り返し繰り返し文学の重要性を描き続けていることはいつか巨大な力となってうねりだすはず。
寧子と貴子の和歌もまた、想いを言葉にし文学として昇華することの象徴だ。
文学とは想いを文章にすることで成仏させる行為なのである。
大河ドラマ「光る君へ」(NHK)
【総合】日曜 午後8時00分 / 再放送 翌週土曜 午後1時05分【BS・BSP4K】日曜 午後6時00分 【BSP4K】日曜 午後0時15分
【作】大石静
【音楽】冬野ユミ
【語り】伊東敏恵アナウンサー
【主演】吉高由里子
【スタッフ】
制作統括:内田ゆき、松園武大
プロデューサー:大越大士、高橋優香子
広報プロデューサー:川口俊介
演出:中島由貴、佐々木善春、中泉慧、黛りんたろう ほか