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人はなぜわかりやすいものを求めるのか「心と精神は別」

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

わかりづらい説明を聞くと私たちは不快感を覚えます。時にはイラっとしさえします。例えば、大学の講義において、何を言っているのかサッパリわからない先生の話を聞くのは、誰にとっても苦痛であるはずです。つまり、わかりづらいものは私たちに「不快」をもたらし、わかりやすいものは私たちに「快」をもたらします。

この事実は昔から哲学の業界でも言われ続けてきたことであり、とくだん目新しいことではないように思います。

しかし、昨今はその風潮が急加速しているように見受けられます。例えば、会社で「もっとわかりやすく資料をまとめろ」と上司に言われてうんざりしたことのある人もいらっしゃるでしょう。「これ以上どうわかりやすくしろと言うのか」。学校で生徒に「わかりやすく説明してください」と言われて、イラっとしたことのある先生もおいででしょう。「きみ、辞書というものを引きたまえ」。

というわけで今回は、人はなぜわかりやすいものを求めるのかについて、「現代的に」考えてみたいと思います。

恥ずかしいこと

1つには、「よくわからないものをどうにか解読しよう」という姿勢を持たないことは「恥ずべきこと」だという社会的な風潮が薄れてきたことが原因ではないかと私は思います。ほんの30年前、私が高校生の頃はまだ、何を言っているのかさっぱり理解できなくても、難解な本を読み通すことが「ステイタス」でした。今でこそ私は哲学を材に好き勝手なことを恥ずかしげもなく、全国の人々に向けて書き散らしていますが、高校生の私は哲学のテの字も知らなかったので、カントやバタイユではなく、教科書で知った小林秀雄の何冊かの著作を苦痛に悶え苦しみながら通読した経験しかありません。しかしともあれ、そうしたことが「いいこと」であり、仲間に胸を張って誇れることでした。そんな時代でした。

しかし今や、そういった風潮はどこを見渡してもありません。難しいことやよくわからないものを苦しみながら飲み込むなんてことは「やらなくていいこと」という風潮が社会を覆い尽くしました。わからないことから逃げることは恥ずべきことではなく、わかりやすく説明しないヤツが悪い、という風潮になりました。

なぜそういった風潮が幅を利かせることになったのでしょうか?

私の適職の探し方

私は「心と精神は別なのだ」という考えを多くの人が持たなくなった、あるいはそういった考えが存在することに気づかなくなったからではないかと思います。精神という「よくわからないもの」が「自分の体内に現にある」と謙虚に認識していれば、同様によくわからない授業内容に対しても謙虚になるはずだからです。「自分の体内にあるものが形を変えて外に出ているだけか。苦痛だけど謙虚に耳を傾けようか」。

事実、『夜と霧』でつとに有名なヴィクトール・フランクルがどこかに書いていたと思いますが、心と精神は別物です。心とは一般的ななんらかを感じるものです。他方、精神というのは、神に繋がるなんらかを感じるものです。それは崇高な気持ちを私たちにもたらします。したがって、「私がこの世に存在している意味」とか、「私の使命」とか「私の適職」といったものは、精神のことをよく知らないとその答えが出ないのが常です。

よくキャリアコンサルタントが適職の探し方として「手はじめに自己理解を深めましょう」と言います。しかし多くの人は、表面上の自己理解は得られても、そこから考えが深まりません。その必然の結果として、キャリアコンサルタントが想定するほどの指導効果が生まれません。その原因は、精神が何であるかを知らないからです。

私に捨象された「て」の意味

私は大人に対しては毎日、心理コーチングやカウンセリングをしています。高校生に対しては、国語と英語教えています。みなさん、わかりやすい説明を私に求めてきます。時には「ここまで説明したのだから、あとは自分の頭で考えたらどうなのか」と思うこともあります。しかし、そこはやはり商売ですから(!)、時にうんざりしながらも、とことんまで噛み砕いて説明します。

ある日、ある生徒さんが、助詞の「てにをは」の「て」とはなんですか? と私に尋ねました。私は次のように答えました。「私は朝起きて、歯を磨いて、学校に行って……」という感じで、「て」とはand、すなわち等位接続詞だと説明しました。もちろん「て」には他にも意味がありますが、「わかりやすく説明しろ」ということでしたから、多くを捨象してそのように説明しました。その翌日、その生徒さんの妹さんにも授業をしてくれないかとお母様から連絡がありました。まあ、そういう時代なのです。

仕事、恋愛、子育て

わかりやすさは、とりわけ「こころ」の領域において、精神を見えなくさせてしまう、そういった危険をはらんでいます。心の問題は心理学にその解決を求める人が多い時代です。精神科医に薬を処方され、臨床心理師に気付きを与えられ、行動の変容を促される。それはそれでいいのだろうと思います。

しかし、私たちの「こころ」は太古から「それがすべて」ではないようにできています。つまり、心と精神は別です。そのことを理解するのに私たちは、ヴィクトール・フランクルのように文字通り死と隣り合わせの壮絶な経験をする必要はないはずです。わかりやすい説明は何を捨象しているのか? ひとりひとりがそう洞察することにより、個人の生活、すなわち仕事や恋愛や子育て、親子関係などが良くなることはもとより、社会全体がよりよい方向に成熟するのではないでしょうか。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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