生きづらさの哲学「悩みを解決する哲学的テクニック」
人々はしばしば「悩みが解決した」と言います。それは問いがおのずと消滅したことを意味します。つまり、悩みが解決する瞬間とはすなわち、問いがおのずから消える瞬間のことです。したがって、なにかよくわからないけどモヤモヤするといった悩み方をしても、悩みは消えません。そうではなくて、まずモヤモヤを問いのかたちにするのです。
例えば、わたしの長年のモヤモヤは端的に、「なんか寂しいとは何か」という問いになりました。あるいは同じことですが、「なぜ努力は報われないのか」という問いになりました。
モヤモヤを問いのかたちにすれば、次にやることはその問いの真の意味を探ることです。例えば、「なんか寂しいとは何か」という問いは真に何を意味するのかを探ることです。わたしはその問いの真の意味を「心の構造とはどのようなものか」と解釈しました。
問いのもつ真の意味がわかれば悩みの8割は消え去っています。消そうと意思せずとも、おのずから消え去ります。このへんは哲学の効果というより、単純に勉強の効果でしょう。朝(あした)に道聞かば夕べに死すとも可なり。
問いの真の意味を探るために必要なことは、おそらく勉強です。今の世の中はみなさん、ラクしておいしい成果を手にしたいと考えておられますから、勉強すれば悩みは消えると言うと人気が出ないのは承知です。しかしわたしは嘘を書くのが嫌いなのではっきり言います。勉強すれば悩みは消えます。なぜなら、問いのもつ真の意味が理解できるからです。
芥川龍之介は「ただぼんやりした不安」に苛まれて自殺したと言われています。というか、本人がそう書いています。芥川はモヤモヤを問いのかたちにしなかったのだろうか。夏目漱石はモヤモヤを問いのかたちにしたように思います。なぜなら『こころ』がもつ構造は現代の精神分析に通ずるものがあるからです。漱石はジャック・ラカンの著作を読んでいませんが、彼は心の構造のようなものをおそらくトコトン考え抜いたと思います。だから自殺ではなく胃潰瘍と痔と神経衰弱で亡くなったのでしょう。
悩みを問いのかたちにすれば、やがて問いそれ自体が消滅します。そのとき私たちは「悩みが解決した」と言います。なんらか腕のいい心理カウンセラーが存在するわけではないのではないかとわたしは思っています。もしいるとするならそれは、あなたが立てた問いの意味をトコトン一緒に考え抜いてくれるだれかでしかないのではないでしょうか。(ひとみしょう/哲学者)