がんをめぐる「ファクトフルネス」
そのがんの認識、間違っているかも
2月4日はWorld Cancer Day(世界対がんデー)だった。長い間、世界各国で「がん撲滅」に取り組んできたにもかかわらず、がんは今も生命を脅かす脅威として、私たちの前に立ちはだかる。
がんに対しては恐怖や絶望を感じがちだが、世界対がんデーをきっかけに、がんや健康管理に関する「FACTFULNESS(ファクトフルネス)」を考えてみたい。
ファクトフルネスは、スウェーデンの医師、教育者だったハンス・ロスリング氏らがデータと事実を基に世界を正しく見る方法を解説した本。2018年に出版されて以来、日本を含む世界各国で100万部を超える大ベストセラーになった。
この本では、恐怖、過大視、単純化といった人間の持つ様々な本能のために、教育レベルが高い人や最新情報を把握しているはずの人でも、世界を正しく認識できていないことを指摘している。
例えば「世界でいくらかでも電気が使える人の割合は?」という質問に対して、私たちは以前にテレビで目にした電気の通っていないへき地といった既成概念にとらわれて、まだ世界の半分くらいは電気なしで暮らしているはずだと思ってしまう。しかし今や全世界の80%の人が電気を使っている。
同じように、がん治療が日進月歩していることを示すニュースを日常的に目にしていながら、誰かが「がん」になったと聞けば、すぐにその人はもう働けない、髪の毛が抜けて吐き気に苦しむつらい化学療法を受けるのだろうか、余命はどのくらいか、咳が出るので自分もがんかもしれない、などと根拠なく思い込んでしまうのではないだろうか。
がん死亡の低下で延びる平均寿命
米シンクタンクCato財団のプロジェクトHuman Progressがまとめた下のグラフを見てほしい。1990年以降のがんによる死亡の推移である。世界のほぼ全域でがんによる死亡は大きく低下を続けていることがわかる。
世界の中でも長寿で知られる日本人。2018年の日本の平均寿命は、女性が87.32歳、男性が81.25歳だった。日本人の平均寿命が延び続けている要因は、がん、心臓疾患、脳血管疾患による死亡率が低下し続けているからだ。
では先進的な医療で知られる米国ではどうだろうか。実は鎮痛剤「オピオイド」の過剰摂取による死亡や、肥満やアルコールなどが要因となる肝疾患などが増加し、米国の平均寿命はここ数年、短くなる傾向にあった。
しかし1月末に米疾病対策予防センター(CDC)から発表された2018年の米国の平均寿命は、4年ぶりに短縮傾向に歯止めがかかり、前年より0.1歳長い78.7歳になった。男女別にみると、女性の平均寿命が81.2歳、男性の平均寿命は76.2歳だった。(注1)
増加を続ける死亡要因がある中で、がんによる死亡が2年連続で2.2%下がったことが、ここ数年の寿命の短縮傾向を逆転させた一番大きな要因だという。
ちなみに米国での主要な死亡原因は、1位が心臓疾患、2位ががん、3位が薬物の過剰摂取を含む偶発的な傷害。これらの原因による死亡はどれも前年より下がったが、その一方で、自殺、インフルエンザ、肺炎による死亡は増加していた。
昔の記憶にとらわれないで
がんによる死亡は世界中で確実に減っている。それなのに、私たちはなぜ「がん」をこれほどまでに恐れるのか。
ファクトフルネスでは、私たちが物事を正しく認識するのを妨げる本能として、物事のネガティブな面に注目しやすい「ネガティブ本能」、恐怖に強く反応してしまう「恐怖本能」、一つの実例を重視してしまう「過大視本能」などをあげている。
健康な人でも、家族や親せきの誰かをがんで失った経験を持つ人は少なくない。良い治療法や有効な副作用の対策などがない時代に、身近な人が治療や痛みで苦しむ様子を目にしたり、聞いたりすれば、恐怖を感じることだろう。
そうした経験を過大視するあまり、今では痛みや治療の副作用のコントロールが大きく改善していることや、早期発見や治療によって治癒や長期間の寛解(がんが消失した状態)が得られるケースが格段に増えているというポジティブな面に意識が向かず、ネガティブな点ばかりを気にしてしまう。
多くの人が恐れる抗がん剤の「吐き気」などの副作用対策も、実際にはこの10年あまりで大きく変わっている。筆者が2008年に、強い吐き気を起こすと言われるプラチナ系の抗がん剤治療を受けていた時も、良く効く制吐剤のおかげで、乗り物酔い程度のむかつきを感じる日が何回かあった程度だった。
髪の毛が抜けると外見が変わるので、最初はどうしてもショックを受けるが、抗がん剤の治療が終われば、髪はまた生えてくる。別の理由で毛髪を失う人は沢山いるし、髪があっても日常的におしゃれなかつらを利用している女性も多い。人の感じ方はそれぞれだが、副作用で一時的に髪が抜けたとしても、それ自体は恐れる必要はないと思う。
先入観より正しい知識のアップデートを
また人間には、少数の例や一部の例外的な事象を、全体の特徴として決めつけてしまう「パターン化本能」もあるという。
例えば「XXを食べてがんが治った」とか、「抗がん剤やワクチンで健康を害した」、「がん検診を受けていたが、早期発見できなかった」といった強烈な印象を与える話を耳にすると、「XXを食べればいい」、「抗がん剤やワクチンを拒否すればいい」、「がん検診は意味がない」といったパターン化思考に陥ってしまう人もいる。
根拠がはっきりしない体験談や、何十年も前のつらい闘病経験談から「がんになったら終わりだ」という先入観に凝り固まることなく、どうか最新の正しい知識をアップデートしてほしい。インターネットなら、国立がん研究センターのがん情報サービスのページで、信頼できる様々な最新情報が入手できる。(注2)
がんについて、本当にすべきこと
がんという病気や治療に対して、漠然とした恐怖感を抱くことより、実際に私たちができること、考えるべきことがある。
まずは生活習慣を改善して、がんのリスクを減らすことだ。喫煙、過度のアルコール摂取、運動不足、偏った食生活、肥満は、どれもがんのリスクを上げる。がんに限らず、病気の治療をする際には、糖尿病、高血圧といった生活習慣病もない方がいい。
また日本では、がん検診の受診率も低い。例えば米国の子宮頸がん検診、乳がん検診の受診率は80%以上だが、日本では50%以下。HPVワクチン接種も進んでいない。(注3)
がんになった後の人生を支える社会を
今やがんの診断を受けても、人生がそこで終わるわけではない。治療の後も人生は続いていくのだから、治療をしながら仕事や学業を続けていくことが大切だ。治療中の、あるいは治療後に社会復帰する際の職場や学校の受け入れ対策は進んでいるのだろうか?
米国では従業員本人の病気、あるいは家族の介護が必要で通常勤務が一時的に続けられない場合、企業は原則として1年につき最長12週間までの無給休職を与えることが、「家族医療休暇法」で義務づけられている。休暇終了時には、元の職か同等の職に復帰させることとし、この法に基づく休暇を取得したことを事由に解雇することは禁じられている。
また雇用の際も、あくまでも募集ポジションに対する応募者の能力が選考基準となり、年齢や性別はもちろんのこと、仕事をする能力に関係のない病歴や障害を理由に応募者を差別することは、「障害を持つアメリカ人法」で禁じられている。
さらに病気や障害のある従業員が働けるように、会社側もできる範囲で配慮をする。筆者も4カ月間にわたる化学療法中は、週に15時間程度だったが、自宅からデータ入力や電子メールによる連絡業務の仕事を続けることができた。
日本でも、がんを経験する人は多く、がんの診断を受けてもその後の人生が長いという事実を人々がもっと認識する必要がある。そうでなければ、治療中、そして治療後も社会生活を続けていける仕組みづくりや、がん経験者を受け入れる側の意識改革も進まない。がん診断を受けた時に本当に怖いのは、治療や痛みではなく、社会から締め出されることなのだ。
参考リンク
注1 米国の2018年の平均寿命(英文リンク、CDC)
注3 厚生労働省 低い日本のがん検診率(がん検診受診率50%達成に向けたキャンペーン)
がん検診 もっと詳しく知りたい方へ(国立がん研究センター がん情報サービス)