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ミスマッチ修復遺伝子異常の直腸がんは手術が不要に?

片瀬ケイ在米ジャーナリスト、翻訳者、がんサバイバー
MSI陽性の大腸がんには免疫療法が有効です。MSI検査で判定できます。(提供:イメージマート)

トイレが心配な直腸がんサバイバー

 筆者の血縁には大腸がんを患った人がとても多い。生まれつきミスマッチ修復遺伝子に変異を持つリンチ症候群を受け継いでしまった人達だ。私を含むリンチ症候群の人は、体内でDNAが複製される際に時々起こる間違いが修復されないので、大腸がんや婦人科がんなどいくつかのがんを発症しやすくなる。

 私の母は6人きょうだいだが、母を含む3人は50歳以前に大腸がんを発症した。私のいとこや甥の中にも、若年性大腸がんの経験者が複数いる。大腸がんは、他の臓器に転移していない段階であれば、手術や抗がん剤などの治療で長期生存も期待できる(注1)。実際、母は88歳の今も存命中だし、大腸がんサバイバーのいとこ達もすでに60代である。

 しかし治療による日常生活への影響は決して小さいとは言えない。特に直腸がんの場合、がんの場所によっては人工肛門が必要になるし、そうでない場合でも長期的な排便障害に悩まされるからだ。

 手術後に退院してからの母も、かなりの間はトイレが心配で外出できなかった。仕事に復帰した時でさえ、通勤経路や行く先々のトイレの場所を必ず事前に調べ、トイレに行きにくい旅行や行事はあきらめる年月を過ごした。一方、30代で直腸がんを発症した甥は人工肛門が必要となり、精神的にも慣れるのにだいぶ時間がかかったようだ。

 大腸がん患者の苦労を身近で見てきた私は、長い間この出来損ないの遺伝子を恨んできた。しかし近年では、このミスマッチ修復遺伝子に異常があるMSI(マクロサテライト不安定性)陽性の大腸がん治療に、素晴らしいことが起きつつある。MSI陽性の場合は一般的な大腸がんと異なり、免疫チェックポイント阻害薬と呼ばれる抗PD-1抗体を使った免疫療法が非常によく効くようなのだ。

免疫療法だけで消えたMSI陽性直腸がん

 2022年の米国臨床腫瘍学会(ASCO)で、抗PD-1抗体薬による免疫療法だけでMSI陽性直腸がんが消失したという驚くべき試験結果が発表された(注2)。抗PD-1抗体薬といえば、日本の本庶佑先生の発見から生まれたニボルマブ(商品名 オブジーボ)が、すでに様々ながん治療に使われているので知っている人も多いだろう。

 ニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリング病院の研究者が行ったこの治験では、ミスマッチ修復機能が欠けたステージ2、ステージ3の未治療の局所進行直腸がん患者に、手術前に抗PD-1抗体薬のドスタルリマブ(日本未承認)を6カ月間投与した。すると試験に参加した12人全員の直腸がんが完全に消失したのだ。免疫療法だけでがんが消えてしまったため、後遺症や副作用をもたらす手術や放射線療法、化学療法の追加は不要だった。

 この治験は継続中であり、先ごろ開かれた2024年ASCOで最新結果が発表された。これまでに41人が6カ月の免疫療法を完了していたが、やはり41人全員の直腸がんが術前の免疫療法だけで消失していた。治験で100%奏効することなど滅多にない。しかも一時的な消失ではないのだ(注3)。

 この治験では、免疫療法での治療後にMRIやPET/CT、内視鏡検査、血液内の腫瘍DNAを調べるctDNA検査などで、がん再発の兆候を確認している。試験参加者のうち20人は、すでに中央値で28.9カ月の経過観察を行っているが、これまでに誰も局所再発も、遠隔再発もしておらず、手術や化学療法など追加治療を必要とすることなく、がんが消失した状態を保っているという驚くべき結果だった。

 現在はこの治療法で米国食品医薬品局(FDA)承認を得るべく、同じ内容で日本を含む国際共同試験を実施しているという(注4)。

治験が進めば日本でも

 じつは日本でも類似の治験が2023年から始まっている。国立がん研究センター東病院の消化器内科医長で、医薬品開発推進部の部長の坂東英明医師が主導する「MSI陽性切除可能直腸がんに対し、ニボルマブ(オブジーボ)で根治・臓器温存を目指す治験」である。初発未治療のMSI陽性のステージ1からステージ3で手術が可能な段階の局所進行直腸がんを、日本発の免疫チェックポイント阻害薬だけで根治する試みだ(注5)。

 手術で直腸を損なわずにすめば、治療後の排便障害に悩まされることなく、患者の生活の質は飛躍的に向上する。免疫療法にも皮膚炎や疲労などの副作用はあるが、化学療法に比べれば大幅に少なく、治療中も仕事を継続する人がほとんどだ。手術に伴う入院も不要になる。

 坂東医師が実施する治験では、ニボルマブを6カ月投与し、治療効果を確認した後、がんが消失していた場合も含め、さらに6カ月の投与を続ける。治療効果の確認時、あるいは12カ月の免疫療法終了後に、もしもがんが大きくなっていた場合には、化学放射線療法や手術など必要な追加治療を行うというものだ。

 治験では薬剤に対する患者の費用負担はなく、検査等について一部、保険診療内での費用が発生することがあるが、通常の治療費用を大きく上回ることはないという。

MSI検査の普及がカギ

 ただしMSI陽性の直腸がんは、直腸がん全体の3%以下である。それでも日本全国でみれば年に700人程度は、この治験の対象に該当するのではないかと坂東医師は推測する。しかしMSI検査をしてみなければ、MSI陽性かどうかがわからない。筆者のようにリンチ症候群でなくとも、散発的なMSI陽性の大腸がんも発生するので、検査で確かめるしかない。

 MSI検査は大腸がん患者に推奨される検査としてすでに保険適用になっているが、まだ普及が進んでいない。今や多くのがんで、遺伝子の特徴をもとに、それぞれの患者のがんに最も有効な治療薬を選択する時代だ。特に結腸がんを含むMSI陽性の大腸がんには、免疫療法が有効なことがわかっている。米国をはじめ海外のがんセンターでは、全ての大腸がんにMSI検査を実施しており、日本でもさらなる推進が必要だ。

 この治験には国立がん研究センターだけでなく、北海道大学病院、東北大学病院、がん研有明病院、神奈川県立がんセンター、新潟大学医歯学総合病院(8月より参加予定)、岐阜大学医学部付属病院、国立病院機構大阪医療センター、倉敷中央病院、九州大学病院も参加する。日本全国の病院にMSI検査の実施と、該当患者の特定および治験紹介の協力を呼びかけていくという。

新たな治療導入には治験が不可欠

 たとえ新たな治療が海外で承認されても、日本では国内の治験で有効性、安全性を確認しなければ、保険適用の治療として認められない。しかし該当患者が少ない場合、製薬会社も積極的には治験を行わないことがあり、結果として日本では海外で行われている治療が使えない事例も起こりうる。

 がんになっても長期生存が期待できるようになった今、患者はがんを治すだけでなく、長く続く生活の質を維持できる新たな治療を切実に求めている。日本でMSI陽性直腸がん患者の治療を変えるには、この治験が必要不可欠なのだ。

 この治験を主導する坂東医師は、「MSI陽性の直腸がんは全体の2-3%ですが、ニボルマブをはじめとする免疫チェックポイント阻害薬は、手術をせずに高い確率でがんを治せる優れた治療です。該当患者さんは年間700人程度ですが、QOLを大幅に向上させる可能性が高い治療です。そのため、この治験は医師が自ら計画し、責任者となる医師主導治験として、国からの研究費と製薬会社からの薬剤提供で実施しています。医師主導治験は、医師の負担も大きいのですが、現在日本が抱えるドラッグラグ・ドラッグロス(海外で承認されている薬が日本で使えない状況)を解消する手段の一つでもあり、今後も積極的に実施していく必要があります」という。

 さらに坂東医師は、「本試験を成功させるには、全国でMSI検査を行ってもらう必要がありますが、まだすべての患者さんに実施できていない可能性があります。直腸がんの診断を受けたら、手術の前にMSI検査の実施と結果について、主治医に確認してみてください」と話している。

参考リンク

注1 大腸がん(結腸がん・直腸がん 治療:国立がん研究センター(がん情報サービス)

注2 ASCO 2022: 100% Complete Response Rate in MMRd Locally Advanced Rectal Cancer Seen in Pivotal ‘Immunoablative’ Neoadjuvant Immunotherapy Clinical Trial(メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター プレスリリース)

注3 Durable complete responses to PD-1 blockade alone in mismatch repair deficient locally advanced rectal cancer. | Journal of Clinical Oncology (ascopubs.org)

注4 大腸がん K1278 | 国立がん研究センター 東病院 (ncc.go.jp)(ドスタルリマブを使った治験)

注5 大腸がん K1257 | 国立がん研究センター 東病院 (ncc.go.jp)(ニボルマブを使った治験)

在米ジャーナリスト、翻訳者、がんサバイバー

 東京生まれ。日本での記者職を経て、1995年より米国在住。米国の政治社会、医療事情などを日本のメディアに寄稿している。2008年、43歳で卵巣がんの診断を受け、米国での手術、化学療法を経てがんサバイバーに。のちの遺伝子検査で、大腸がんや婦人科がん等の発症リスクが高くなるリンチ症候群であることが判明。翻訳書に『ファック・キャンサー』(筑摩書房)、共著に『コロナ対策 各国リーダーたちの通信簿』(光文社新書)、『夫婦別姓』(ちくま新書)、共訳書に『RPMで自閉症を理解する』(エスコアール)がある。なお、私は医療従事者ではありません。病気の診断、治療については必ず医師にご相談下さい。

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