「放送90年」の節目に、ラジオについて考える
放送90年はラジオ90年
去る3月22日は「放送記念日」だった。これはNHKが1943(昭和18)年に制定したもので、1925(大正14)年3月22日にラジオの仮放送を開始したことに由来する。今年はまさに“放送90年”に当たるが、本当の意味は “ラジオ放送90年”なのである。
90年の歴史を持つラジオだが、戦時中においては文化機関ではなく政治機関であり、国民に対して国家が意思を伝えるためのメディアだった。そして戦後は、1953(昭和28)年にテレビ放送が始まるまで、映画と並ぶ“娯楽の王様”として支持される。しかし、テレビの普及に伴って、社会におけるラジオの地位は徐々に下がっていった。
ちなみに、ラジオを聴くために銭湯の女湯がガラガラになったといわれる、伝説のラジオドラマ「君の名は」の放送は、テレビ放送開始の前年、1952(昭和27)年のことだった。
深夜放送の隆盛
やや地味なメディアとなっていたラジオが、再び活況を呈したのは60年代後半のこと。1967(昭和42)年、「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)や「パック・イン・ミュージック」(TBS)など、ラジオの深夜放送が始まったのだ。2年後の1969(昭和44)年には、「セイ!ヤング」(文化放送)もスタートする。
これらの番組は、それまでとは違う、身近な存在としてのパーソナリティーが魅力的だった。彼らは恥ずかしい失敗、本音や内面をもさらけ出していた。まるで自分に向かって語りかけてくれているような一体感。いまを一緒に生きているという同時代感。それらが私を含む当時の若者たちの心をとらえて離さなかった。
ラジオと東日本大震災
ラジオの特色は大きく分けて二つある。一つは深夜放送に見られるように、マスメディアであると同時にパーソナルメディアでもある点だ。
ラジオは本来マスメディアの一種だが、大衆に向けた単なる情報伝達の手段ではない。音のみで情報を伝えることから、話している相手と聞いている『私』との間に、一対一の”メディア空間”が形成される。話し手が自分という個人に語り掛けているという印象を持ち、親近感を抱きやすいという意味でパーソルなメディアなのだ。
二つ目の特色は、マスメディアでありながら地域メディアでもあることだ。2011年の東日本大震災の時、テレビでは犠牲者数など全国向けの情報が流されていたが、地元のラジオは給水車や食糧配布の場所など、被災者が“いま欲しい情報”を堅実に伝えていた。また被害状況にとどまらず、リスナーから刻々と届く肉声(メッセージ)を伝え続けたことで、ラジオは地域の人たちの心に寄り添うメディアとなった。
震災時のラジオの活躍は、内容の面だけではない。地震や津波による停電でテレビをはじめとする他のメディアが使えなくなったときも、電池で動くラジオは唯一稼働するメディアとして、存在自体が被災者を元気づけた。ラジオの向こうに生きている人がいると感じさせることで、被災者に安心感を与えたのだ。
小説「想像ラジオ」とラジオの想像力
ラジオは映像が伴わないことが弱みだと捉えられがちだが、裏を返せばそれは強みにもなる。画面に映らないという理由から、ラジオの出演者はテレビに比べてリラックスして話せるのだ。そのためリスナーは、出演者の人柄や素の部分までを楽しむことができる。
いや、それだけではない。音声だけだからこそ、人の“想像力”を強く刺激するのだ。テレビでは、「赤い花」は具体的な花として映し出されてしまう。しかし、ラジオで「赤い花」と聞いた時、100人がイメージする花は100通りある。
2013年に発行され、野間文芸新人賞を受賞し、芥川賞候補作にもなった、いとうせいこうさんの小説『想像ラジオ』(河出書房新社)。主人公は、ラジオパーソナリティのDJアークだ。彼は被災地から不眠不休で放送を続けている。
だが、そのおしゃべりや音楽は、ラジオのスイッチを入れても聴こえてこない。彼自身が言うように「あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのもの」であるからだ。ラジオという想像力のメディアと、震災が生んだ、21世紀の“世界文学”と呼びたい野心作である。
ラジオのこれから
3月29日に、TBSラジオの「全国こども電話相談室」が、半世紀を超す歴史に幕を下ろした。確かに、PCやスマートフォンによる検索全盛時代の今、存続は難しかったのかもしれない。
だが一方で、最近はスマートフォンの普及や、ラジオ放送をインターネット上で同時配信する「radiko」のようなサービスの登場により、新たなラジオファンも増えてきた。「電話相談室」に代表される、送り手と受け手が互いを感じることのできる双方向性は、今後も形を変えて継承されていくべきラジオのチカラだろう。