東通工(SONY)が作った録音機が電話の天気予報177の出発点
電話が殺到した天気相談所
現在の気象情報入手方法はインターネットが主流となっていますが、少し前までは電話をかけて聞く、電話予報が主流でした。
中央気象台の天気相談所は、終戦から約半年後の昭和21年(1946年)2月25日に開設となっています。
ただ、予算はゼロで、周知不足もあり、開設した2月25日は来所した新聞記者1名、翌26日は午前中に1名来所と、津波に関する問い合わせ1件しかありませんでした。
しかし、二、三か月閑古鳥が鳴いた後、6月からは急に忙しくなっています。
朝の電話は大部分天気予報の照会で、特に雨が降っている日や雨が降りそうな日、休みの前の日はすさまじい忙しさになっています。
急増した天気相談業務に対応するため、翌22年(1947年)1月6日には、中央気象台達(中央気象台内の規程)がだされ、正式に天気相談所が誕生しています。
そして、同年3月31日に予報課の久米康孝庶務係長に天気相談所主任の辞令が出され、法的に認知された官制上の天気相談所の誕生は昭和22年(1947年)3月31日ということになります。
昭和28年になると、天気相談所にあった2本の外線電話が朝から晩まで鳴り続けて、ちっとも止み間がない状態になるという修羅場になっています。
天気相談所の職員は、受話器をはじめから外しっ放しで肩にかけて耳にあてがい、指先で電話機のポッチを抑えていたといいます。
ひとつの話が終わってポッチを押した瞬間、次の人との話が始まるという具合で、時には、同時に二人の人からかかることもあったとのことです。
殺人的な電話洪水で、人呼んで「神風相談」と言われました。
あるいは、天気相談所に電話がつながることは「宝くじ的なぎょう幸」ともいわれました。
利用者の方も、気象台への電話はしょっちゅう話中で大変な仕事ということから、「天気当番」を決めて電話をかけ続けたり、ラチがあかないから車で駆けつける人もでるほどでした。
気象台の他の部署の電話も、天気相談所への電話がかからない影響でパンクすることもあり、気象台全体の問題となっていました。
その時に現れたのが、井深大等が作った東京通信研究所が発展してできた東京通信工業(東通工:現在のSONYの前身)の磁気録音機(テープレコーダー)でした。
東通工(SONY)が作った録音機
昭和25年(1950年)に東通工(SONY)が作った日本初の画期的な製品であるG型テープレコーダーは、「便利で面白い」と興味は持ってもらえるものの全く売れませんでした。
重さが15キロで、値段は16万円と非常に高価だったからです。
東通工(SONY)は、テープレコーダーは、必ず売れる画期的な製品であるとして、軽量化と低廉化をはかり、視聴覚教育を重視し始めた学校への売り込みに力を入れています。
こうして、世の中に出てきたテープレコーダーを、中央気象台も会議記録用として購入しています。
そして、昭和28年(1953年)4月30日(木)をむかえます。
当時のエネルギー源は水力発電所で、全国的に4月の雨が少なかったことから計画停電が予定されていましたが、この時の低気圧と前線による待望の雨で停電が回避されています。
東京に限っていえば、雨量は少なかったのですが、午後から降り出した雨は15時ごろに一度やみ、16時頃からまた降りはじめています(図1)。
このような天気の時は、天気の問い合わせが殺到するのですが、この時もそうでした。
この時、予報課の職員が、「この雨はにわか雨でまもなくやみましょう」という予報を録音したテープを輪にしてテープレコ―ダーにかけ、電話の受話器をはずしてスピーカーの前に置いています。
この試みは、その後も、会議がないときはテープレコーダーをいつも天気相談所に置いて続けられました。
この経験を踏まえ、中央気象台と日本電信電話公社(現在のNTTの前身)は、翌29年(1954年)2月16日から自動応答方式の試験を開始し、9月1日から東京地方の天気予報を一般公開しています。
ヒューズを手にもって仕事
天気相談所主任の職名が天気相談所所長に変わり(初代の所長は筆者の元上司の大野義輝さん)、天気相談所が拡充したのは、昭和29年(1954年)4月1日ですので、電話による天気予報サービスが東京で始まった半年前ということができます。
電話による天気予報サービスは、都内のどこからでも「23局6666番」にまわすと、天気予報が聞けるというものでしたが、25回線しか用意していなかったため大混乱がおきています。
開始2日目の9月2日には1万4000回応答しています。
3分に1回応答して1時間に20回、24時間で480回、これが25回線で1日1万2000回の計算です。
つながらなかった電話は、応答回数よりはるかに多く、日本電信電話公社では殺到した電話により5~10分に1回はヒューズが飛ぶため、職員はいつもヒューズを手に仕事をしていたという伝説が生まれています。
日本電信電話公社では、23局、24局、33局の6600番台の空いている線を全部天気予報に回しても焼け石に水でした。
このため、早くも9月22日からは番号を局番なしの「222番」とし、300回線に増やしていますが、その直後、9月25日から26日には1日に11万から12万回も応答しています。
これは、のちに洞爺丸台風と名付けられた台風15号が襲来したためです。
天気予報サービスのサービスは全国に広がりましたが、番号は地方に異なっていました。
これが、現在使われている「177」に統一されたのは、昭和39年(1964年)3月のことで、東京から市外通話がダイヤル式に変わったことと時期を同じくしています。
それまでは、市外通話は交換手につないでもらう方式で、手間がかかり料金も高いものでした。
最初から聞きたい
時代が平成となっても、電話予報177の利用は多く、1日平均の利用が約90万件と、117の時報(1日平均100万件)に次ぐものでした。
平均では2位ですが、台風接近時などのピーク時には、記録的な利用者数となっています。
昭和60年(1985年)3月、日本電信電話公社は民営化され、日本電信電話株式会社(NTT)に変わっていますが、電話による天気予報177は、長いこと、東通工のテープレコーダーの前にマイクを置くことと同じ原理の方法でした。
この方法は、電話が殺到したとき、繰り返し天気予報が流されているスピーカーの前に使えるマイクをどんどん置いてゆくという考えのシステムですので、簡単に急増したアクセスに対応ができました。
ただ、この方法では、電話が繋がったときに、情報の途中から始まることは避けられません。
このため、「最初から聞けるようにして欲しい」という要望は最初からありました。
しかし、この問題が解決したのは、コンピューター技術が飛躍的に進歩したあと、平成5年(1993年)4月1日からです。
一つの画期的な製品や仕組みができると、思いがけないところから発展してゆきます。
電話による気象サービスは、当時、考えられないほどの変化をしています。
同様に、現在主流のインターネットを使った気象サービスも、これからは、想像ができないほど変わってゆくと思われます。
図の出典:気象庁ホームページをもとに筆者作成。