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ストレスフリーのワールドカップはなぜ実現できたか? ロシア取材中に感じた意外な快適さとホスピタリティ

宇都宮徹壱写真家・ノンフィクションライター
今大会のボランティアスタッフ。方向指示の手袋は観客とのハイタッチでも利用された。

「私はロシアに長く滞在したことがなかったので、大会前と大会後で本当にイメージが変わりました。ロシアの人たちが本当に親切で高潔性があり、大会の組織運営自体も素晴らしいものでした。各クラブが持っている施設もスタジアムもトップレベルで、あらためてロシアの組織委員会、ロシアの国民の皆さんに感謝したいと思います」

 日本代表のワールドカップ帰国会見を締めくくるにあたり、JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、このように述べている。ヴァイッド・ハリルホジッチ前監督の解任以降、個人的には会長の発言に反発を覚えることが少なくないのだが、今大会のホスト国に関する会長の総括と謝辞に関しては心から共感を覚えた。というのもこのロシア大会は、われわれ取材者にとっても、想定をはるかに超えるストレスフリーな大会となったからだ。おそらく現地を観戦に訪れたファン・サポーターも、同様の感想を抱いたことだろう。

 思えば2010年の南アフリカ大会、そして14年のブラジル大会は、いずれも観戦者にとってハードルの高いワールドカップであった。南アフリカは深刻な治安の問題があったし、ブラジル大会も犯罪のリスクに加えて、インフラ整備の遅れや大会そのものに反対するデモも頻発。ゆえに両大会とも、慣れない環境への適応のみならず、常に半径1メートル以内に注意を払い続ける必要があった。南アフリカもブラジルも素晴らしい面はたくさんあったが、何かとストレスを感じさせる開催国であったのも事実だ。

 ところが今回のロシアについては、治安面の不安を感じることはまったくなかった。心配されたテロの脅威やフーリガンの暴力は、国家の威信に懸けて完璧に近い形で封じ込めることに成功。午前0時を過ぎても、まったく不安を覚えることなく街中を歩くこともできた(この点については、良くも悪くも「警察国家」と評されるロシアの面目躍如と言えよう)。しかし今大会の快適さについて考えるとき、決してトップダウンだけでは説明できない「ロシアの懐の深さ」を感じることができた。以下、個人的に感心したことを列挙したい。

●交通

 ファンIDというビザ代わりのパスを持った観客は、現地の鉄道が無料で乗り放題というのは、実に画期的なアイデアだった。これで財布の負担が軽く済んだ方も大多数だったと思う。また各都市の地下鉄やバスの運行も軒並み定刻通りで、しかも夜遅くまで運行。21時キックオフのゲームでも、帰りの足を心配することはほとんどなかった。タクシーについても、日本の相場に比べて安く設定されており(30分間で1000円から2000円)、これまた大いに助かった。

●宿泊

 今回、宿泊で最も苦労したのが、日本の初戦の会場となったサランスクである。特に観光地というわけでもなく、人口も30万人ほどということで、ホテルの数が非常に限られていたからだ。結果として、現地の家庭に「民泊」する形となったのだが(コロンビア人の家族も滞在していた)、ホテルとは違ったホスピタリティを感じることができて、結果として良い経験をすることができた。今大会は自宅を提供、あるいはマンションの一室を貸し出す「民泊」を、大いに活用させてもらった。

●食事

 タタールスタン共和国の首都であるカザンを除くと、ロシアには「ご当地料理」と言えるものは意外と限られており、どこに行っても似たようなメニューが出される。とはいえ、エスニック系のレストラン(特にイタリアン)に関しては、この10年でかなりレベルが上がったように感じた。しかもロンドンのように「お金を出せば美味いものが食べられる」ではなく、比較的手頃な価格でも十分に楽しめることができる。飲食に関するコストパフォーマンスは、基本的に高かったように感じた。

●ネット環境

 取材者として最も有難かったのは、実はこれかもしれない。空港やホテルはもちろん、カフェやレストラン、そしてスタジアムなど、ほとんどの場所で無料Wi-Fiを利用することができた。一般的なのは、現地の携帯番号を入力して、コード番号がショートメールで送られてくるタイプ。またカフェやレストランでは、スタッフに聞けば気軽にパスワードを教えてくれる。おかげで大会期間中、ネット環境で困ることはほとんどなかった。

●ボランティア

 今大会で特にお世話になったのが、取材先で出会ったボランティアスタッフである。中高年のスタッフもいたが、主力として活躍していたのが10代後半から20代と思われる若者たち。彼らの多くは分かりやすい英語を話し、異文化に対する抵抗感も少なく、そして何より自ら積極的なサービスを心がけていた。彼らの親の世代とは明らかに異なる、社会主義の時代を知らない「新しいロシア人」を見る思いがした。

●ホスピタリティ

 もっとも、ボランティアスタッフ以外のロシア人は、たいてい英語が通じない。その代り、言葉を超えたホスピタリティをおりに触れて体験することができた。ロシア人(特におばさんやおばあさん)は、旅行者が困っていると放っておけないようで、ロシア語をまくしたてながら何かと世話を焼いてくれる。一方で、スマートフォンの翻訳ソフトを使ったやりとりも多く見られ、そこにも時代の変化が感じられた。

 ところで日本人にとってのロシアは、最も近いヨーロッパであるにもかかわらず、ずっとネガティブなイメージが付きまとっていたように感じられる。それはソビエト時代から続く北方領土問題であったり、東西冷戦時代の記憶であったり、さらに古いところでは第二次世界大戦での参戦やシベリア抑留といった歴史的な背景も影響していたように思う。しかし実際に現地で出会うロシア人は、そのほとんどが人情味と親切心に溢れる人々ばかりであった。おそらく現地を訪れた多くの日本人が、それまでのロシアに対するイメージを大きく改めたことだろう。

 今回のロシアでのワールドカップは、日本代表の躍進と併せて非常に心に残る大会となった。と同時に、2年後の五輪とパラリンピックのホスト国となるわれわれ日本人にとり、多くの教訓を与えた大会にもなった。わが国の場合、治安と交通、食事やホスピタリティについては問題ないだろう。しかし宿泊やネット環境、そして大会ボランティアの確保については、依然として多くの課題を残しているように感じる。ワールドカップ開催を通じて、国際的なイメージアップに成功したロシアから、われわれが学ぶことは決して少なくない。

※写真は著者撮影

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

写真家・ノンフィクションライター

東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。『フットボールの犬』(同)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)で2016サッカー本大賞を受賞。2016年より宇都宮徹壱ウェブマガジン(WM)を配信中。このほど新著『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)を上梓。お仕事の依頼はこちら。http://www.targma.jp/tetsumaga/work/

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