国は労働者を見捨てた? 死ぬほど残業しても「救済しない」方針を通達
11月29日、個人加盟制の労働組合・総合サポートユニオンが厚生労働省記者クラブで記者会見を開いた。エンジニアのAさん(30代の男性)が国を相手取り、不認定となった自身の精神疾患を労災認定するよう求める裁判を東京地裁に提訴したのだ。
争点は、Aさんが精神疾患の理由とする持ち帰り残業(自宅に持ち帰って行った労働時間)を労働時間として判断するか否か。テレワークが当たり前の就労形態となったり、残業時間の上限規制が法的に設けられるなどする中で、持ち帰り残業時間をどう評価するかという点は、今後の働き方を考えるうえで重要になっている。
実は、今回の労災認定をめぐる行政訴訟の背景には、ほとんど報道されない間に国が密かに決定した新しい「通達」の存在があった。まずは事件の概要を追っていこう。
「残業時間は9時間まで」厳しい残業規制が生んだ持ち帰り残業
Aさんは株式会社アドバンテストという会社で半導体製品を開発するエンジニアで、精神疾患を患った当時、「光超音波顕微鏡」という人間の皮膚の組織を見るための機器の開発にあたっていたという。業務は5名のプロジェクトチームで行われ、精神疾患を発症する数か月前の2017年6月、Aさんはこのプロジェクトチームのサブリーダーに任命されたばかりだった
プロジェクトチームの任務は、大学や企業の研究所から集められた部品の実験結果をもとに、製品を設計し、実験を重ねながら光超音波顕微鏡に仕上げることで、その内容は高度に専門的な内容で、製品改正までの道のりは気の遠くなるような手間がかかるものだったという。
Aさんが体調の異常を感じ始めたのは、2017年10月頃。その前月の9月の段階で製品開発のスケジュールが3か月ほど遅延しており、Aさんはスケジュールの遅れを取り戻すために必死になって働いていた。Aさんによれば当時の遅れはどう考えても取り戻せるような遅れではなかったそうなのだが、納期が延期されることはかった。そしてサブリーダーになったばかりのAさんに大きな責任がのしかかることになったのだ。
長時間の労働が必要であったのに、会社では、ひと月当たりの残業時間が9時間までと厳格に決められており、これを超えれば本人やその上司は処分される可能性もあると言われていたため、職場に残って残業することができなかった。Aさんを含めたプロジェクトチームのメンバーは皆、仕方なく持ち帰り残業を行って業務をこなすことになった。
サブリーダーとしての責任を負うAさんの持ち帰り残業時間は尋常でなく、2018年1月には「うつ病」と診断されることになってしまった。うつ病と診断される直前半年間の労働時間は下記の通りで、過労死基準とされる月80時間を優に上回るものだったが、そのほとんどが持ち帰って行ったものだった。
- 発症前1か月 214時間29分
- 発症前2か月 168時間42分
- 発症前3か月 96時間29分
- 発症前4か月 104時間25分
- 発症前5か月 129時間01分
- 発症前6か月 120時間13分
膨大な持ち帰り残業を労働時間として一切認めなかった厚生労働省
精神障害の労災認定基準では、長時間労働を精神疾患の原因となる心理的負荷の要因として重視しており、以下の基準以上の長時間労働の事実があれば労災として認定するとしている。
「特別な出来事」としての「極度の長時間労働」
・発病直前の1か月におおむね160時間以上の時間外労働を行った場合
・発病直前の3週間におおむね120時間以上の時間外労働を行った場合
「出来事」としての長時間労働
・発病直前の2か月間連続して1か月当たりおおむね120時間以上の時間外労働を行った場合
・発病直前の3か月間連続して1か月当たりおおむね100時間以上の時間外労働を行った場合
精神疾患の労災認定基準では、心理的負荷をもたらす要因が「特別な出来事」と「出来事」の2つに分けられている。「特別な出来事」というのは異常な心理的負荷をもたらす事柄で、「出来事」というのはそれ以外の事柄のことをいう。「特別な出来事」に当たるとされるのは、「極度の長時間労働」の他に、「生死にかかわる、極度の苦痛を伴う、又は永久労働不能となる後遺障害を残す業務上の病気やケガをした」などがあげられる。
Aさんの長時間労働は、「特別な出来事」としての要件も「出来事」としての要件も満たしていた。しかもメールやスケジュール管理ツールの記録、持ち帰って作成された文書など膨大な証拠も残されていた。しかし、Aさんが労災申請した行田労働基準監督署は、膨大な量の持ち帰り残業は一切心理的負荷のある労働時間として認定しなかった。審査請求でも再審査請求でもその判断が覆ることがなかった。
その理由は、持ち帰り残業について会社の明確な業務命令がなかったからということに要約できるが、客観的に見て大いに疑問が残る決定である。
厳格化される労災認定における労働時間の判断
そもそも労災認定の判断する際に計測される「労働時間」は、長時間労働や割増賃金を規制する際の「労働時間」よりも広く判断されてきた。労基法は違反企業を罰するのに対し、労災保険法は被災労働者の救済のための制度であるからだ。
そのため、労働基準法の労働時間は、労働者が使用者の指揮命令下にある時間であるか否かで判断されるのが一般的だが、これに対して労災認定の判断で問題となるのは、精神疾患が業務に起因するか否かを判断するための労働時間であり、会社の支配下に置かれていればよく、厳密に指揮命令下にあることは必ずしも要してこなかった。
ところが、この数年、労働基準法上の労働時間と労災認定の判断における労働時間を一致させるように運用が変更され、ついに昨年3月30日の厚労省通達「労働時間の認定に係る質疑応答・参考事例集の活用について」が出され、その別添の「問答集」で「労災認定における労働時間は労働基準法第 32 条で定める労働時間と同義である」ことが明記された。
つまり、これからは持ち帰り残業を大量に要求されて過労死したり精神障害にかかっても、労働災害の認定は以前よりもずっと厳しく判断していく、と国は方針を転換したのだ。これだけ重大な判断が十分な議論もなしに出されることは大きな問題である。そもそも、国は2014年に「過労死等防止対策推進法」を制定し、被害の救済や啓発を推進してきたはずではなかったのか。
Aさんの労災認定の判断はこの通達の前であるが、この通達と同じ考えに運用が変更されていた中で判断されたものと考えられる。他の支援者や弁護士に聞く話では、以前なら認められていた持ち帰り残業による精神疾患や脳・心臓疾患が労災として認められない事例がほかにも出始めているようだ。
この通達については、すでに東京新聞が大きく取り上げているが、残念ながら大きな社会問題にはなっていない。
「仮眠や持ち帰り残業が「労働時間」に加算されない? 厚労省が基準厳格化、労災の認定後退の恐れ」(2022年1月19日 東京新聞)
裁判所を無視した国の暴走?
今回の通達がさらに問題なのは、この通達が近年の裁判例の傾向にも反しているということだ。
東京大学の水町勇一郎教授によると、労災認定をめぐる裁判例においては、「支店長からの指示を受けて受験した技術士試験のための自宅等での勉強時間など、使用者の具体的な指揮命令下にあるとはいえない時間についても、使用者の支配下にある「業務」にあたる時間として時間外労働時間数に算入する例が増えている」という(『詳解 労働法 第二版』)。
通常、行政通達は裁判所の解釈に従って発せられることになる。当然であるが、裁判所の解釈とは異なる通達に基づく行政の法律行為は、行政訴訟によって覆されることになるからだ。裁判例の傾向に逆らってまで労働災害の認定を厳しくする今回の通達は、かなり異例だとみてよい。
逆に言えば、今後この行政通達に絡む行政訴訟が頻発し、そのたびに国が敗訴する、という事態が広がっていくことも予測される。だとすれば、本来は救済されるべき労働者や遺族に対し、裁判のために余計な費用と時間の負担をおしつけているだけだろう。それどころか、裁判費用を負担できない被災者は泣き寝入りを強いられることになる。
近年、過労死が社会運動の力で問題化される中で、脳・心臓疾患の労災認定基準が20年ぶりに改正され、2021年9月15日から労働時間以外の要素も積極的に評価するなどしてより多くの被災者を救済する方向に制度が変わってきてたはずだ。逆行する流れは是正されるべきである。
また、働き方改革の残業規制によって持ち帰りを行う労働者が増加したり、テレワークの普及によって自宅での労働が当たり前になる中で、持ち帰り残業の評価はより重要性を増している。
そして何より、立法や裁判を無視した行政の一方的な通達で救済の道が狭められる事態は、民主主義社会の根本をも揺るがしている。国は労働者の救済の観点から、方針を見直す必要があるだろう。
主催:総合サポートユニオン
12月4日(日)13:00~17:00
電話番号03-6804-7650
無料労働相談窓口
03-6699-9359(平日17時~21時 日祝13時~17時 水曜・土曜日定休)
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*筆者が代表を務めるNPO法人。訓練を受けたスタッフが労働法・労働契約法など各種の法律や、労働組合・行政等の専門機関の「使い方」をサポートします。
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ブラック企業対策仙台弁護団
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*仙台圏で活動する「労働側」の専門的弁護士の団体です。