樋口尚文の千夜千本 第39夜「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」(樋口真嗣監督)
悪夢を呼び覚ます、俗悪にして高貴なるモーション・ピクチャー
かつて稚ない頃のぼくらのかけがえのない感情教育の場であった映画館では、「笑う」「泣く」「怒る」といったことと等しく「怖い(と思う)」が重要な経験であった。まだ幼児の自分が親に連れて行かれた映画館で観た映画のなかで、もの凄く「怖い」「禍々しい」と思う瞬間があった作品がずっと題名もわからぬままトラウマになっていて、大人になってさまざまな旧作を観まくるうちにたまたまそれがヒッチコックの『白い恐怖』のダリによる超現実的な夢のシーンであったり(なぜか)森谷司郎『弾痕』の冒頭の箱根の狙撃シーンであったりすることに気づく・・・という事がたびたびあった。しかしながら、そんな「怖さ」のトラウマを植え付けられた映画の筆頭は、同世代の多くの子どもたちがそうであったように本多猪四郎監督、円谷英二特技監督の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』なのだった。
『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』は近年ブラッド・ピットがアカデミー賞授賞式でオマージュを捧げたことでにわかに話題を集めていたが、1966年に公開された東宝怪獣映画の代表作にして特撮映画の至宝とも呼ぶべき傑作である。同じ細胞から生まれた海彦山彦的に対照的な性格の兄弟怪獣が闘うという単純な物語だが、とにかくこの怪獣が夜の闇や海面の直下になにげなく潜んでいたりするリアリティが悪夢的な「怖さ」を醸していた。とりわけわれわれを戦慄させたのはこの怪獣が白昼の羽田空港に出現して人びとを恐慌に陥れ、逃げ遅れた女性を喰って、むしゃむしゃ噛み砕いた後にちぎれた衣服をぺっと吐き出すというショッキングな描写であった。公開時四歳の私は劇場でこの場面を観て、それまでの『ゴジラ』シリーズなどで感じた虚構的な寓話として観られる感覚とはかなり別物の、本気の「怖さ」に金縛りにあうようだった。いわばそれまで映画内で遠いファンタジーであった怪獣が、一気に自分を食い殺すかもしれない「そこにある危機」として感じられた瞬間であった。
たぶん人は文明の壁で自然を隔絶したところに生まれる、自分が「頂点捕食者」だという幻想を粉砕される時に、眠っていた本能的な(そして深甚な)大恐怖を呼び覚まされるのだろう。ジョーズやアナコンダが人を食らう場面のたまらない悍ましさもそこに由来するのだろうが、たとえば昭和『ガメラ』のギャオスが工事現場の職員を掴んで空高く持ち上げ、自分の鋭利な白い歯の向こうに運んでゆくというそんなに特撮の精度が高くない場面ですらじゅうぶんに怖かった。樋口真嗣が特技監督をつとめた平成『ガメラ』第一作ではこのギャオスの人喰いがくだんの『サンダ対ガイラ』の羽田空港のシーンへのオマージュと絡めて描かれファンをにんまりさせたが、こういう「喰われるかもしれない」という体感的な恐怖の表現は、人の自然に対する傲慢で狭隘な視野を改めさせるという意味でも、映画のみがなし得る貴重な情操教育なのである。
そういうことも含めて、全篇にわたって「喰われるかもしれない」恐怖をひたすらに描きまくった『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』が2015年の夏休み映画の目玉であるという事態には快哉を叫ぶほかない。最近めっきり「泣く」は多くても「怖い」を避けてきたシネコンで、子どもたちがこの本格派の悪夢に翻弄され、思いきり濃いトラウマを抱えて劇場を後にしてほしいと願うばかりだ。私が『サンダ対ガイラ』のショックで朦朧となりながら東宝の封切館から出てきた、半世紀前の夏休みのハイキーな昼下がりのように。あれは自分の映画体験のなかでも屈指の実りあるものだったと思う。本作の初号試写の少し前に『ジュラシック・パーク』シリーズの新作『ジュラシック・ワールド』の完成披露試写にも出かけたが、この作品もひたすら「喰われるかもしれない」怖さに絞り込んでデジタル技術を投入し、あれやこれやの「怖い」パターンを掘り下げているのがよかった。
そして『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』も、樋口真嗣と尾上克郎という本邦きっての特撮の異才が、こうしたハリウッド作品にも比肩し得る堂々たる特撮映像のつるべ打ちで「喰う」「喰われる」地獄図を追求しまくる。とにかく目を奪われ続けるのは、巨人たちが思い思いのスタイルで無表情かつ無慈悲に人間を喰いまくる、そのディテールの容赦ないどぎつさと表現の多彩さである。こんなにさまざまに人の喰われるさまを時には残虐に、時にはいくばくかのブラックな滑稽さも交えながら画として具現化していった作業過程は(想像するだにうんざりだが!)気が遠くなるような日々であったかと推測する。しかしその甲斐あって、本作はあの『サンダ対ガイラ』の羽田空港の惨劇が100分近く続くようなけったいで、俗悪で、しかし異様な活力(正確には俗悪に徹する気高さというべきか)に満ちた作品となった。
細かい話だが、たとえば同じくVFXを動員してシネコン的微温湯さへのアンチテーゼをやってみせたという意味では園子温監督の『リアル鬼ごっこ』などもそうであって、走行中のバスごとたくさんの女子高生が真っ二つにされたり顰蹙物のどきっとする画は続くのだが、しかしあのタッチは見るからに露悪的であろうという姿勢が見える点で表現へのシニスムを感じ、逆にそのことが「わざとエグいことをやっています」という額縁を意識させて、実はそんなにおっかなくなくなってしまう。それはそういうことが狙いの作家的作品なので別に不満でもないのだが、『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』が「怖い」のはそういう露悪的な意識で作られているわけではないからだ。つまり、この作品はただ強者の巨人が弱者の人間を「喰う」行為を(サバンナでライオンの狩りを眺めるがごとく)虚心に丹念に再現しているところが「怖い」のだ。思えば『サンダ対ガイラ』も『ジョーズ』も、そういう視点の「自然さ」が恐怖を担保していた。
とまれこんな机上でああだこうだ言うのはたやすいことだが、ただ「喰われる」ことを観ていて「怖い」という域までの映画内リアリズムで描き上げるというのは、相当の精密さとセンスがなければなし得ないことであって、同様にただ「喰われるかもしれない」恐怖に徹底したくだんの『ジュラシック・パーク』やとにかく疾走し障害を駆逐する意志とアクションのみに集中した『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のように、『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』も何よりただそれだけのシンプルな恐怖の醸成に全てを傾けているところが圧倒的にいいのだ。こうした東西の娯楽作品が、モーション・ピクチャーの原点に回帰するような単純な活劇と見せ物性への志向で壁を破ろうとしているストリームは大肯定されるべきことだろう。
さて、凝りに凝った特撮映像に加えてキャストもそれぞれの持ち味を活かして奮闘していたが、こうした「画」で出来ているスペクタキュラーな作品には生っぽくなくポップな「画」になっていられる資質が求められる。そういう意味ではとりわけ水原希子と長谷川博己の「画」であり続ける酷薄さを迷いなく引き受けているさまはさすがな感じであり、彼らが立体機動装置でダイナミックに巨人たちをのしてゆく「画」もまことにキマッていた。「画」といえば、やはり特筆しておきたいのは、このぞろぞろと出現する匿名の巨人たちがひじょうにおっかない危険な感じを漂わせて「怖い」わけはなぜだろうと言うことだ。観ながらその理由にやがて気づいたのだが、ここに登場する巨人の多くが決して異界の者というデフォルメを施されておらず、市井にうろちょろしていてなるべく遭遇を避けたいアブない人間たちそのまんまではないか。
つまりここにいる巨人たちは、失うものもなく勝手な鬱憤から何かしでかしてしまいそうな目つき、自堕落で摂生を怠っただらしない肥満ぶり、薬物中毒ではないかと思われるような亡霊じみた生気のなさ・・・といった特徴を例外なく備えていて、みんななんとなく通り魔の犯人みたいな表情と肉体なので、これがめちゃくちゃ嫌な感じなのである。もしも彼らのデザインが日常感覚から乖離したモンスター然としていたら、そんなに悍ましいおっかない感じはしなかったのではなかろうか。巨大化物で知られるバート・I・ゴードンの『巨人獣』のプルトニウム人間では普通に不気味過ぎるし、「ウルトラQ」”変身”の巨人では二枚目過ぎる・・・そのはざまの日常的な醜悪さとダメダメ感が本作の巨人の気味悪さの源泉である。何かこの怖さは、格差社会のアウトサイダーたちが食人族と化して包囲してくるような感じで、そこにまた現代の寓話みたいなものが読めるかもしれない。
という訳で、『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』に続く後篇『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN END OF THE WORLD』もぜひ大作的な贅肉を避けてこの前篇のようにシンプルな上にもシンプルな「怖さ」で走りぬくマッチョな娯楽作になっていることを祈りたい。