災害出動が予想されるので4ヵ月遅れの11月1日が自衛隊記念日
自衛隊記念日
11月1日は昭和41年(1966年)に制定された「自衛隊記念日」です。
自衛隊は昭和29年(1954年)7月1日に「防衛庁設置法」と「自衛隊法」が施行されて発足しましたが、7~10月は災害での出動が予想されるため、記念行事等を行うのに都合が悪いため、天候が安定する4ヶ月遅れの11月1日を記念日としているとのことです。
7月は梅雨末期の豪雨被害が懸念され、8~10月は台風災害が懸念されるからです。
10月の台風は、9月の台風と違い、北上してもほとんどが日本の南岸までで、めったに上陸しませんが、これは、10月は台風災害が少ないということを意味しません。
台風の発生数と上陸数は、ともに8月が一番多く、次いで9月、7月、10月の順です。
しかし、昭和26年(1951年)のルース台風、昭和40年(1965年)の台風29号、昭和54年(1979年)の台風20号など、10月の台風で死者・行方不明者が100人を超えています(図、表)。
大災害が発生した台風の数では、9月、10月、8月の順ですので、10月も7~9月と同様、台風に対して警戒が必要な月です。
今年も台風21号が静岡県御前崎に上陸し、台風22号が沖縄近海から日本のすぐ南海上を東進して大きな被害が発生しました。
大きな災害がおきると自衛隊が災害出動し、さすがといわれる活躍をしていることは、東日本大震災や熊本豪雨などで広く知られていますが、この災害出動が最初に行われたのが、10月に鹿児島県に上陸したルース台風です。
ルース台風
昭和26年(1951年)は、旱魃気味で、各地で電力不足がおきているさなかの10月14日に鹿児島県に上陸したルース台風は、九州南部を中心に全国的に強い風が吹き荒れ、宮崎県細島で最大風速が毎秒69.3メートルを観測し、約9600 隻の船舶被害がでています。
また、台風の接近で前線活動が活発となり、九州東部、四国、中国地方で大雨となり、全国で死者943名など大きな被害が発生しています。
ルース台風で一番大きな被害を受けたのは山口県、それも広島県との県境付近を流れる錦川の上流の広瀬町(現在の錦町)や、そのまわりの村々です。山崩れが多発したため、死者・行方不明390名などの大きな被害が発生しています。
当時は、アメリカの占領下にあり、台風にもアメリカが命名した女性名がつけられていましたので「ルース」という名前が台風につけられました。
また、ルース台風の前年の6月25日に勃発した朝鮮戦争に関連して、警察力を補うものとして、2週間後の7月8日のマッカーサー連合軍最高司令長官の書簡に基づき、政令で警察予備隊令が制定されて警察予備隊(自衛隊の前身)ができていました。
このため、田中山口県知事から福岡第四管区への要請に対し吉田首相の決裁という形で、警察予備隊の災害出動が行われています。
ルース台風の災害出動
ルース台風に対する災害出動は、まず、下関市にあった警察予備隊福岡第四管区小月キャンプの300名が救援物資輸送と復興協力のため、21日早朝にトラック20台で出発しました。
車での連絡の道を開きながら40ケ所の決壊箇所を突破し、同日夕方に、喜びの声をあげる町民に迎えられ広瀬町に入っています。そして、「飢えと寒さにふるえる陸の孤島」となっていた広瀬町が生き返っています。
自衛隊ができて30年後、昭和54年(1979年)には兵力24万人、防衛費が2兆9000億円と世界8位となった自衛隊に対し、日本世論調査会が行ったアンケート調査では、現状維持と縮小・廃止が56%、防衛費が国民総生産(GNP)の1%以内を守るべきが47%でした。
そして、自衛隊の存在意義は、災害救助が68%、日本の平和の確保が13%でした。つまり、自衛隊ができてから30年後は、平和の確保より災害救助として認知されていました。
現在は、災害救助も、平和の確保もともに大事な存在意義として認識されていますので、この比率は変わっていると思いますが、昭和50年代に災害救助の比率がかなり高いのは、平和があたりまえと考えられていたためと思います。
図、表の出典:饒村曜(1997年)、10月に大きな被害をもたらした台風、気象、日本気象協会。