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羽柴(豊臣)秀吉は、明智光秀が織田信長を討つということを事前に知っていたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉像。(写真:イメージマート)

 世は選挙一色であるが、どの政党が勝つのかわからない。本能寺の変前夜、羽柴(豊臣)秀吉は、明智光秀が織田信長を討つということを事前に知っていたというが、その点について考えることにしよう。

 天正10年(1582)6月2日未明、光秀は信長の宿所の本能寺を襲撃し、自害に追い込んだ。光秀は信長を討つことに成功したが、その後は有力な諸将を味方にすることができず、6月13日の山崎の戦いで秀吉に敗れた。逃亡した光秀は、土民に討たれたのである。

 戦後、清須会議が催され、秀吉は織田家の有力な家臣を制して、織田政権内で優位な立場を確保した。以後、柴田勝家、織田信孝を死に追いやり、小牧・長久手の戦いで徳川家康、織田信雄を配下に収めた。それから秀吉は関白になり、天下人の道を歩んだのである。

 古来、秀吉が主犯あるいは黒幕として、本能寺の変に関与したといわれてきた。最終的に秀吉がもっとも得をしたのだから、秀吉が一番怪しいという理屈である。しかし、そうした説は小説まがいの根拠のないものばかりで、まったく信が置けない。

 秀吉の中国大返し(備中高松城から山崎までの行軍)は、事前に本能寺の変を知っていなければ、不可能だったという説がある。秀吉は光秀が本能寺で信長を討つことをあらかじめ知っていたので、周到な準備をして中国大返しを成功に導いたというのだ。

 実は、従前からいわれたような中国大返しの日程は、二次史料に基づいた誤ったものであり、今は一次史料に基づき無理のないことが確認された。最近では船を使用したとか、御座所を使ったなどの説が提起されたが、いずれも史料的な根拠がない。

 そもそも2・3万という秀吉の軍勢が団子の塊になって移動したとは思えず、秀吉ら有力諸将が馬で先行し、あとから徒歩で将兵が追いつく形になったと考えられる。つまり、秀吉勢は先頭から最後尾まで、数十キロは離れていたと想定すべきである。

 そもそも秀吉だけではなく、人間は正しく未来を予想できない。秀吉が信長討ちの主犯であれ、黒幕であれ、確実に天下を取れるという保証はない。そういう当たり前のことを念頭に置けば、秀吉が本能寺の変に関与したなどは、根拠のない妄説に過ぎないと考えられるのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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