学校教育の落としもの【コラム】
先日、「夢みる小学校」という映画の試写会に参加した。
「日本一自由な学校」と呼ばれる「きのくに子どもの村学園」のひとつ、南アルプス子どもの村小学校に約1年間密着したドキュメンタリーだ(22年2月公開予定)。
子どもたちが巨大な遊具やテラスを自分たちでつくったり、和紙づくりや蕎麦づくりに取り組むなかで、さまざまな教科に関連する学びを深めたりする姿がいきいきと描かれた感動作だ。
時間割の約半分はプロジェクトと呼ばれる体験学習を実施しているし(次の図)、子どもたちが議論するミーティングでは、教師も校長も理事長も児童もみんな同じひとり一票で決める。
予告編があるのでぜひご覧いただければと思う。
南アルプス子どもの村小学校と近い理念と実践をしているのは、2020年4月に開校した軽井沢風越学園(幼稚園と義務教育学校)ではないかと思う(もちろん、ちがいもあるが)。こちらは11月に少しだけ見学してきた。
子どもたちは思いきり外遊びを楽しんでいたし、クラフトルームでなにか物づくりに夢中になっている子もいた。3Dプリンターを駆使する子もいた。ここは校舎の中心にある図書館が圧巻で(次の写真)、本、ネット、学校内外の人など(地域の協力先も多いようだ)好きなところから情報と知恵にアクセスできる。風越学園でもカリキュラム上、プロジェクト型学習を重視している。
算数・数学などでは異年齢で学び合っているのも興味深い。わたしが訪問したときは3年生~8年生(中2)が混ざっていたし、年上の子が年下の子に教えてもらうのも慣れたもので、恥ずかしいという感じではあまりない様子だった。
■「理想的な学校」と言っていいか?
もっとも、きのくに子どもの村学園や軽井沢風越学園のすべてが「理想的」だなんて、言うつもりはないし、課題や悩ましいところもあると思う。映画や書籍、報道などでは、どうしてもある側面を切り取って一定のメッセージを伝えようとするが、現実はもっと複雑だ。
たとえば、蕎麦づくりなどのテーマからさまざまな教科の学びにつなげられるのは確かだとしても、断片的な知識になり、結局あまり使えないものになる可能性もある。児童も大人もみんな一票というのはいかにも民主的に見えるが、安易に多数決に頼ろうとすると、ある偏った見方や行動を少数派に強いることもなるかもしれない。
さて、同一年齢同一学級というのは、多数の子どもたちを相手に一定水準の知識を授けるという意味では効率的だが、人工的な仕組みだ。社会に出たら、年齢などあまり関係なく協力したり、学び合ったり、ときには対立したものを調整したりする必要がある。その点、学校の段階から、異年齢で学び合うというのはもっとあったほうがよいとわたしも強く考えている。だが、型だけ変えても、未熟な先生では、学級崩壊状態に近いものとなるかもしれない。
広田照幸『教育不信と教育依存の時代』(紀伊國屋書店、2005年)では、こういう一節がある(p.11、14)。
この本のタイトルのとおり、ある教育への不信の裏には、ある別の教育モデルへの過信や依存があるという重要な指摘だ。
■夢中になれる学校
こうしたことには注意しつつも、やはり、優れた取り組みや尖った実践をしている学校から得られるヒントは多いと思う。
きのくに子どもの村学園と軽井沢風越学園の取り組みからは、多くの学校が普段見落としがちなところ(”落としもの”)を再確認し、振り返るチャンスをくれる。公立学校に限らず、私立や国立の学校についても言えることではないかと思うのだが、ここでは3点お話ししたい。
ひとつは、わたしたちは、学校教育で目のつきやすいところを過度に重視してこなかったかという反省だ。
たとえば、テストの結果(普段のテストや全国学力テストなど)、進学結果(いわゆる“いい”大学・高校に行けたか)、部活の成績(優勝したなど)など。あるいは普段の指導では、ちゃんと学校に来ているか(出欠情報)とかノートをきれいに取れているかなどをいまだ重視する学校も一部にはある。
きのくに子どもの村学園や軽井沢風越学園では、それらをまったく軽視しているわけではないだろうが、あまり気にしていないようにわたしの目には見えた。というのも、なにより、こうした学校で重視しているのは、子どもたちが夢中になることだ。
心理学では「フロー」、アスリートの世界では「ゾーン」などと呼ばれることもあるが、なにかに夢中になる、没入する体験から学ぶこと、成長することは多い。子どもも、大人も。
だが、通常の学校では、カリキュラムはタイトで、子どもたちが多少じっくり取り組んだかと思えば、「次の単元に行きますよ」となることも多いのではないだろうか。
小学校は学級担任制なので時間上も多少融通が利きやすい部分はあるし(たとえば図工を2時間通しでする)、教科横断的な学びも比較的進めやすい。だが、小学校の先生は準備する教科数は多いし(最大で10教科前後)、トイレに行く暇もないくらい忙しい。これでは、子どもたちが夢中になれるような課題を考えたり、支援したりする余裕のある先生は多くはないだろうと推測する。
中高は教科担任制で教科横断的な学びを進めるにはいくつも壁があるし、日頃の授業では入試を強く意識せざるを得ない。部活は部活でひとつの没頭できる体験となりうるが、部活に熱心過ぎて、授業が不安な先生も一部にはいる。中学、高校で、生徒が没頭できるかどうかとか、知的好奇心が高まっているかどうかといったことは、どれだけ重視されているだろうか。
とりわけ、コロナ危機が事態をより難しくしている。
次のグラフをご覧いただきたい。ベネッセ教育総合研究所の「小中学校の学習指導に関する調査2020」によると、「教師主導の講義形式の授業」「教科書通りに教える授業」をよく行ったという小学校、中学校はそれぞれ5~6割。また、ときどき行ったという学校も合わせるとそれぞれ9割近くに達する。小学校では「計算や漢字などの反復的な練習」も多い。
図:2020年1学期で行ったこと(教員向け調査)
「自分で決めたテーマについて調べることを取り入れた授業」をよく行っている小中学校は1割に満たず、「グループでの話し合いを取り入れた授業」「体験することを取り入れた授業」をよく行っている小中学校も2割未満だ。
これは1年以上前のデータ(休校明けの2020年1学期の状況)なので、直近の様子はもう少し変わっている可能性も高いが、先生たちからよく聞くのは「ともかく教科書を最後まで終わらせないと」とか「他のクラスや近隣校と比べて進度が遅いと、保護者からクレームが来る」という話だ。たしかに時間切れで未履修な単元が生じるのは問題だと思うが、教科書を端から端までなぞらないといけないというものでもないだろうし、子どもたちの学びが豊かなものになっているかというほうにも注目する必要がある。
以上述べたような背景もあって、子どもたちが夢中になれる時間が、普段の学校でどこまであるかどうかは心もとない(繰り返すが、個々の教員の意識や指導方法の問題だけでなく、環境や制度がそうさせている部分も大きい)。
■大量のアウトプット
第二に、きのくに子どもの村学園と軽井沢風越学園では、子どもたちのアウトプットが一般的な学校よりも圧倒的に多い。
自分が熱中したプロジェクトについて、発表したり、作品をつくったりする。アウトプットする場があることで、アタマが整理されたり、改善に向けたフィーバックが得られたり、もっと学びたいと思うことができたりする。アウトプットとインプットの好循環になる。
もちろん、一般的な学校でも子どもたちが授業中に発言したり、作品をつくったりすることは日常的な光景だ。だが、アウトプットの量と質がどれほどなのか、ということを振り返る必要があるのではないか。
■子どものウェルビーイング、楽しいを第一に
第三に、学校でも家庭でも、「将来のために今はガマンせよ」という部分が強すぎる教育になっているのではないか、という点を振り返りたい。
「好きなことばかりやらずに、入試のためにいまはガマンしてこっちの勉強をしなさい」、「苦手教科を克服しないと、将来困るわよ」。
こういう声かけを教師も保護者もしがちだ。両学園ではこうした指導がまったくないというわけではないだろうが、子どもたちが今を楽しむことを重視している。実際、多くの子どもたちは実に楽しそうなのだ(なかには楽しめていない子もいるかもしれない、そこは要注意だが)。
もちろん、将来のために今をガマンするということが必要なときもある。好き勝手なことばかりしていて、本当に大丈夫なのかという心配ももっともなことだと思う。だが、ガマンせよということが強くなり過ぎると、ストレスが高くなって、子どもたちの幸福感、ウェルビーイングや知的好奇心は高まらない。それは結果的に将来にもマイナス影響になりうる。
以上の3点はかなり重なり合うところもある。「子どもを主語にした学校」、「学習者中心の学び」といった言葉は、よく聞かれるようになった。だが、肝心なのは、どこまで本気でそうなっているかだ。
前述のとおり、どの学校がいいとか悪いとか、簡単に言える話ではない。いまの制度や教員の過酷な勤務環境のなかでは、厳しいことも多い。だが、映画を観たり、学校を訪問したり、話を聞いたりするなかで、「あそこは特殊だから」と突き放すのではなく、「うちの学校でももう少しできることがあるかも」とか「こういう考え方はついつい忘れがち、軽視しがちになっていたよね」と思えることもあるのではないだろうか。
(参考文献)
広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店
武田信子『やりすぎ教育』ポプラ新書
妹尾昌俊『教師と学校の失敗学:なぜ変化に対応できないのか』PHP新書
◎妹尾の記事一覧