真田昌幸の父の名は「幸隆」ではなく、「幸綱」が正しかった
戦国時代の研究は目覚ましく、ときに著名な武将の名の誤りが指摘されることもある。真田昌幸の父の名は、かつて「幸隆」といわれてきたが、実は「幸綱」が正しかったというので、解説することにしよう。
真田幸綱が誕生したのは、永正10年(1513)のことである。子としては、信綱、昌輝、昌幸、信尹らがいる。武田氏が信濃に侵攻すると、やがて幸綱は配下として加わることになった。
『甲陽軍鑑』には、幸綱の実名を記しておらず、「真田弾正忠」、「一徳斎」と書かれるのみである。つまり、「幸隆」という名が広まったのは、『甲陽軍鑑』によるものではないらしい。
寛永年間に編纂された『寛永諸家系図伝』には、「幸隆」と書かれている。これが「幸隆」という名の初見であり、ほかの系図類も踏襲したと考えられる。
天保14年(1843)、真田家8代当主の真田幸貫の命により、家臣の河原綱徳が『真田家御事蹟稿』を編纂した。同書は、総巻73巻および附録図19本で構成されている。
同書は、幸綱以下、信綱・昌幸・信之・信繁(幸村)ら真田氏初期の数代の事蹟について、古記録・古文献・古文書を引用して考証、編集したものである。真田氏研究には、欠かせない史料である。
『真田家御事蹟稿』には、幸綱の一代記の『一徳斎殿御事蹟稿』が収録されている。『一徳斎殿御事蹟稿』においても、幸綱ではなく、すべて幸隆という名で統一されていた。
残念ながら、今のところ幸綱自身が発給した書状は発見されていない。しかし、信頼できる記録類を確認すると、幸隆と書かれている史料はないということが指摘されている。
高野山蓮華定院が所蔵する『過去帳』には、「真田弾正忠幸綱母儀」とある。山家神社(長野県上田市)の扉の銘文には、「大旦那幸綱・信綱」と記されている。つまり、幸隆ではなく、幸綱が正しいようだ。
『一徳斎殿御事蹟稿』には、もともとは幸綱と名乗っていたが、幸隆に改めたと書かれているが、その根拠は薄弱である。やはり、幸綱と呼ぶのが正しいようである。