豊臣秀吉の死の情報は、なぜ数ヵ月にわたり秘密にされたのか
今やインターネットの時代であり、重要人物の死は秘密にしていても、あっという間に世界中を駆け巡る。しかし、豊臣秀吉は亡くなったにもかかわらず、その死は数ヵ月にわたり秘匿された。その経緯を考えてみよう。
いかに天下人の豊臣秀吉とはいえ、死は平等に訪れる。秀吉の体調が優れなくなったのは、文禄4年(1595)のことである。大坂で発症した秀吉は、翌年正月の年頭のあいさつを延期することにした。
病が回復したのは2月のことで、伏見に戻った秀吉は、我が子の秀頼の参内を計画した。当時、まだ4歳だった秀頼は元服すらしていなかったが、秀吉は将来に大きな不安を感じたのであろう。
慶長2年(1597)末頃になると、再び秀吉は病に罹ったが、何とか回復した。その後、秀吉は醍醐寺で花見の計画を立て、3月に行った(醍醐の花見)。秀吉自らが庭づくりなどを指示したという。
慶長3年(1598)6月、病が秀吉を襲った。もはや秀吉は、足腰が立たなくなっていたという。さらに秀吉は胃が悪かったようで、同時に赤痢にも罹っており、命が危ぶまれる状況だった。
同年7月、秀吉は少しばかり病状が回復したので、徳川家康らと面談したが、この時点で死を覚悟していたようである。大名や天皇らに遺品を与えていたのは、その証左になろう。
同年8月5日、秀吉は遺書を認め、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に送った。内容は、秀吉が亡くなったあと、秀頼を守り立ててほしいと懇願したものである。
秀吉が没したのは、同年8月18日である。しかし、秀吉の死はただちに公表されなかった。当時、日本軍が朝鮮に出兵していたので、その撤退を優先的に行ったのである。
秀吉の死が伏せられたのは、死が公表された際の悪影響を恐れたからだろう。とりわけ朝鮮からの撤兵には慎重で、秀吉が亡くなったにもかかわらず、8月25日付の秀吉朱印状で撤兵を命じた。
秀吉の死が公表されたのは、慶長4年(1599)になってからだった。同年3月、京都所司代の前田玄以は秀吉の遺言を朝廷に伝え、同時に「新八幡」の神号の勅許を申請したのである。
その後、秀吉の遺体は伏見城から阿弥陀ヶ峰に移されると、朝廷は「豊国大明神」の神号を贈った。秀吉の死の影響は、計り知れないほど大きかった。その後、政局をめぐって混乱したのは、承知のとおりである。