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織田信長が3人の息子を他家の養子に送り込んだわけ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 今でも我が子を養子に出すことはあるが、戦国時代には政略上の意味があった。織田信長が3人の息子を他家の養子に送り込んだのも理由があったからなので、その辺りを考えることにしよう。

◎織田(北畠)信雄(1558~1630)

 織田信雄は、信長の次男として誕生した。永禄10年(1567)、信長は北伊勢に侵攻し、8郡の支配を実現した。伊勢1国を支配するには、南伊勢5郡を支配する北畠氏を降す必要があった。その2年後、信長は南伊勢に攻め込み、北畠氏を降参に追い込んだ。

 その際、北畠氏の養子に送り込まれたのが信雄である。これは実質的な乗っ取りで、北畠氏は天正4年(1576)に信長によって、粛清されたのである。

◎織田(神戸)信孝(1558~1583)

 織田信孝は、信長の三男として誕生した。永禄11年(1568)、信長は信孝に神戸具盛の娘を娶り、養子になるよう命じた。具盛の娘には婚約者(関盛信の子)がいたが、それを破棄したうえだった。こちらも事実上の乗っ取りといえよう。

 以降、具盛は信長に従って各地に出陣したが、元亀2年(1571)に蒲生賢秀のもとに預けられた。その後、具盛の家臣の多くは信孝に仕えることになったので、事実上、具盛は失脚したことになろう。

◎織田(羽柴)秀勝(1569~1586)

 織田秀勝は、信長の四男として誕生した。天正4年(1576)、秀勝は羽柴(豊臣)秀吉の養子となった。秀吉には子がなかったので、秀勝は将来の家督継承者の有力な候補だったと考えられる。

 天正10年(1582)に信長が亡くなると、秀吉は丹波を領有することになり、亀山城(京都府亀岡市)に秀勝を入れた。しかし、秀勝は病弱だった様子がうかがえる。3年後の12月、秀勝は亀山城で病没した。まだ、数え歳で18歳という若さだった。

◎まとめ

 信雄と信孝は伊勢支配のために、北畠氏、神戸氏の養子として送り込まれた。一方で、秀勝の場合は、秀吉との関係を強める意図があったと考えられる。同じ養子でも、目的はやや違ったようである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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