本能寺の変で織田信長と運命をともにした3人の家臣
社長に不測の事態が生じたとき、最後まで運命をともにする社員もいれば、そうでない社員もいる。本能寺の変では、織田信長と運命をともにし、討ち死にした家臣がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎森蘭丸
蘭丸の父は、美濃金山城主の可成である。森氏は美濃国守護土岐氏に仕えていたが、斎藤道三によって当主の頼芸が追放されたので、以後は織田信長に仕えた。蘭丸が弟とともに織田信長に小姓として仕えたのは、天正5年(1577)5月といわれている。
天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が勃発すると、蘭丸は信長を守るべく、明智光秀の軍勢と戦った。しかし、衆寡敵せず、蘭丸は安田国継(天野源右衛門)に討たれたのである。なお、国継は信長に槍で怪我を負わせたというが、疑わしいとされている。
◎小倉松寿
松寿の父・実房は、近江国の豪族だった。永禄13年(1570)の金ヶ崎の戦いの際、実房は織田信長に与したので、六角氏に攻められ自害した。松寿の母・お鍋は、信長を頼り岐阜城を訪れた。すると、信長はお鍋を側室として迎えたのである。
天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が勃発すると、京都市中に宿泊していた松久は、信長を救うべく本能寺に向かった。松久は明智光秀の軍勢と勇猛果敢に戦ったが、しょせんは多勢に無勢で、最期は討ち死にして果てたのである。
◎湯浅直宗
直宗の先祖は、紀伊国湯浅郷に豪族だったという。直宗自身は尾張国で誕生し、中島主水正の娘婿になると、織田信長に仕えたといわれている。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、無断で出陣するという軍令違反を犯したが、戦いに勝利したので咎められなかったという。
天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が勃発すると、直宗は京都市中に宿泊していたが、小倉松寿らとともにただちに本能寺に急行した。しかし、多勢の明智光秀の軍勢に叶うことなく、無念の思いを抱きつつ戦死したのである。