【光る君へ】藤原詮子の最期とは、どのようなものだったのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原詮子が衰弱していく場面が描かれていた。詮子の最期とは、どういう状況だったのか、歴史物語『栄花物語』から読み取ることにしよう。
藤原詮子が兼家の娘として誕生したのは、応和2年(962)のことである。そして、円融天皇のもとに入内したのは、天元元年(978)のことだった。2人の間に一条天皇が誕生したのは、その2年後である。
寛和2年(986)、花山天皇が突如として出家したので、一条天皇が即位した。これは、兼家の謀略といわれている。以後、兼家は摂政となり、その子の道隆、道兼、道長らも昇進という恩恵にあずかった。
同時に、詮子は一条天皇の母として、発言権を持つことになった。道隆、道兼が相次いで亡くなると、その後継者をめぐって、伊周(道隆の子)と道長の2人が有力な候補となり、激しいデッドヒートを繰り広げた。
その際に決定打となったのは、詮子が一条天皇に道長を推薦したことである。その結果、伊周は退けられ、道長が内覧として一条天皇を支えることになった。伊周・隆家兄弟は、長徳の変で失脚する。
こうして詮子は一条天皇を支えつつ、道長を表舞台に引き上げるなどした。しかし、長保3年(1001)12月14日、詮子は藤原行成の邸宅で亡くなったのである。数え歳で40歳だった。
『日本紀略』には、死の事実を記すものの、あまりに情報が少なすぎる。その点、歴史物語の『栄花物語』は文学作品ながら、もう少し詳しく書かれているので、紹介することにしよう。
12月になると、詮子は急に発熱し、体調が悪化した。しばらくしたらよくなるだろうと思ったが、一向に体調は回復しなかった。一条天皇も食事が喉を通らなくなるほど心配した。
道長が詮子の病状を医者に相談したところ、「寸白」(寄生虫による病気)であると教えられた。その後、腫物が潰れて膿が出て、さらに悪霊退散の祈禱を行ったが、なかなか回復には至らず、ついに亡くなったのである。
詮子は一条天皇にとっては優しい母であり、道長にとっても自らを引き立ててくれた姉だった。その悲しみとは、とても言葉に尽くせないものがあった。
詮子が葬られたのは、藤原一族の墓所の宇治陵である。『栄花物語』には、道長が葬儀の際に詮子の遺骨を包持したと記すが、これは創作であるといわれている。実際に包持したのは、道兼の子の兼隆である。