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鳥居元忠だけではなかった。関ヶ原合戦前夜。伏見城の攻防で戦死した徳川方の3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伏見城の残石。(写真:イメージマート)

 会社でも社員が亡くなることほど、悲しいことはない。関ヶ原合戦前夜。伏見城の攻防で戦死した徳川家康配下の3人の武将がいたので、紹介することにしよう。

◎内藤家長(1546~1600)

 内藤家は、松平(徳川)氏に仕えた譜代の家臣である。内藤家長は、清長の子として誕生した。家長は弓の名手として名を馳せ、依田信蕃から「近代無双。今弁慶と称すべし」と称えられた武将である。三河一向一揆でも家康に従い、一揆勢と戦った。

 のちに家長は上総国佐貫城(千葉県富津市)主となり、2万石を与えられた。慶長5年(1600)7月の伏見城の攻防においては、西軍を相手に奮闘したが戦死した。死後、家督は子の政長が継承し、さらに1万石を加増されたのである。

◎佐野綱正(1554~1600)

 佐野綱正は三好康長に仕えていたが、のちに豊臣秀次に仕官した。秀次の死後、家康の配下に加わった。慶長5年(1600)7月の伏見城の攻防では西の丸を守備し、西軍に大砲を放つなどしたが討ち死にした。戦後、綱正の首は晒されたという。

 綱正は伏見城に入場する際、家康の側室を知人に預けたという。家康はこの事実を問題視し、あまり綱正を評価しなかったと伝わる。綱正の死後、子の吉綱が家督を継承したが、与えられた所領は近江野洲(滋賀県野洲市)にわずか800石だけにとどまった。

◎松平近正(1547~1600)

 松平近正は親清の子で、大給松平家の流れを汲む。天正18年(1590)に徳川家康が江戸に移ったとき、上野国三ノ倉(群馬県高崎市)に5500石を与えられた。関ヶ原合戦前夜、近正は鳥居元忠とともに伏見城に入り、守備を担当することになった。

 近正が伏見城に入城する前、家康が元忠に「少ない軍勢しか残せず申し訳ない」と詫びると、元忠は「私と近正がいれば大丈夫です」と答えたという。近正の力量は元忠からも高く評価されていたが、伏見城の攻防では無念にも戦死したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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